歩みを進めると、ぴしゃり、と赤い水が学生服の裾に跳ねる。
壁と言わず床と言わず、飛び散った血と肉片でより赤く彩られたその部屋は。
泣けない彼の心を切り開いて構成した、哀しい立体模型のように、見えた。
カグツチ塔でCURSEにかかったシュラは、煌天時までに回復の泉へ至ることが不可能と分かると、煌天の間、
一人にしてくれと言い残し、ある一画に閉じこもった。
傍につかせてくれと請う、仲魔たちの悲壮なほどの説得にも一切応じずに。
恐らくは故意に遠ざけるつもりだったのだろう。ライドウがシュラに頼まれた所用を済ませて、彼らの元に
戻ったときには既にカグツチは煌天となっており。シュラの命令に縛られて、その場から動けぬ
仲魔たちは小刻みに体を震わせて、蒼白な顔でその心の痛みに耐えていた。
――― 愛する主の悲鳴が断続的に漏れ響く、その場所で。
そのおぞましいほどの叫び声に耳を塞ぐこともできず、助けることはおろか傍に行くことすら禁じられた
仲魔たちは、狂おしいほどの焦燥を瞳の色に交じらせながらライドウに状況を説明した。
「CURSE状態の主様は、煌天時になると、狂われるのです」と。
その狂いはマガタマの種類及びシュラの状態によって、様々。これまではそれぞれの状況に応じて仲魔を頼り
、かつ出来うる限り、早急に回復の泉で解呪することで何とかなってきたのだと言う。
「なのに、どうして今は」
一人で居るのだと眉を顰めて問うライドウに。
「主様は一言も理由をおっしゃいませんでしたが、恐らくは」
真の悪魔となられたことで、その「狂い」がこれまでの比では無いと判断されたのでは、と。
・・・これまで、あそこまで悲痛なお声を聞いたことはありません、と。
そう話す間にも漏れ響いてくるその声に、ビクリとしながらシュラを敬愛する仲魔たちは言い募った。
そして、自分自身で体を傷つけることが、これまでも多くあったのだと聞いたライドウとゴウトが、
せめてアイテムによる回復だけでもと、急ぎ、その部屋に入り、一歩進めると。
――― ぴしゃり、と赤い濡れた音が床から這い上がった。
むせ返るような血の臭いと、飛び散った肉片に眉を寄せながら、部屋の中を見回すと、
部屋の中央に一際赤く、光るグラデーションを持つ肉の塊があった。
「……っ。勇……」
赤いうめき声がソレから聞こえる。
「千晶……、どう、してっ」
「シュ、ラ?」
「せ、んせい、どうして」
呆然と名を呼ぶライドウに気がつかぬように、ソレは意味の分からぬ言葉を吐き続ける。
「とう、さん。大オジ……どう、して、俺、だけが……っ!」
首を振り、腕を床に打ちつけ、自らの爪を身体に突き刺して、ソレは慟哭する。
「かあ、さん。ね、え。どうして、俺、なの……?」
突き刺した爪が、体をえぐり、ぴしゃ、と血と肉片が飛び散る。
「いや、いやだ。いやだいやだいやだいやだいやだ」
「シュラ!しっかりしてください!!」
狂ったように叫び、身喰いし続けるソレを見ていられず、ライドウはその両手首を掴んで拘束した。
一瞬。
赤い瞳の焦点がライドウに定まり、ソレの動きが止まる。
その隙を逃さず、ライドウがソレの口に魔石を含ませると、体の傷が少し癒えていくのが見えた。
「ら、いどう?」
「僕です。もう、これ以上は」
自分を傷つけるのはやめてくださいと、言い終わることもできぬまま。
「う、うあぁぁぁあああああっ」
シュラが恐怖に満ちた声をあげ、自分の手を振り払おうとするのを、ライドウは見る。
「シュラ?!」
「いやだ、離せ、はなせハナセ、……いやぁあああ!離して!」
『女性体?!』
声が変わり、ブレた映像のように姿が入れ替わる。
振り乱された、血に染まった長い髪がライドウの頬に、ぴちゃと張り付く。
「いや。イタイのは、もう、いやあぁぁぁあ」
「落ち着いてください!シュラ!」
「はな、して!はなして、デビルさまなぁ。私は、ワタシはアクマなんかじゃない!」
……ぴくりとライドウの頬が動く。
「もう撃たないで、汚さないで、犯さないで、追い詰めないで、コロサないでぇぇぇえ」
「シュ、ラ」
――― それは、かつて自分が『彼女』に与えたのであろう心の「傷」。
「怖い、怖いコワイコワイコワイコワイ。…………お、ねがい。もう、私を切り裂かないで・・・」
『…………離して、やれ。ライドウ』
膝を付いて、俯いて、首を振って、恐怖に震えて。
ただただライドウに怯え、彼の手を拒む彼女を見ながら、ゴウトが苦しげに言う。
「ゴウ、ト。しかし」
『体の傷ならば、後から癒すことはできる』
――― では、心のソレは?
がたがたと、何かに怯え、うずくまって震える彼女からライドウは少しずつ距離を置く。
出来うる限り、そっと離したその手は、しかし再び自らの体へと潜り込み、血と肉を跳ね上げた。
◇◆◇
「――― ははっ」
やがて少女の細い啜り泣きの声は、狂ったような少年の笑い声に変わる。
「は、ははははははっ!」
笑いながら肉を抉る。楽しそうに血を流す。
「コロセ」
笑い声をピタリと止めると、正しく『修羅』の顔をした少年は強い声で言う。
「殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ殺せ!」
そして、ライドウをゆるりとその視界に入れて、濁った赤い瞳で哂う。
「俺を、殺せ。でびるさまなあ」
「……できません」
叫びたいほどの何かを抑えて、ライドウは答える。
「殺せ」
ソレは言い募る。
「できません」
殺せと、できぬと、その無為なやりとりを数え切れぬほど繰り返し。
やがて力尽きたかのように、かくり、と床につっぷし、ふっと、いつもの優しい彼の顔に戻る。
「ああ……ごめん、ね。ゴウトさん。ライドウ」
正気に戻ったかと……だがその刹那の安堵を裏切り、普段のままの笑顔で彼は言葉を続けた。
「俺を、殺してくれ。ライドウ」
――― もう、俺は、知ってる。 「それ」が、お前が受けた「依頼内容」だってことを。
ビクリと反応するライドウとゴウトをその迷子のような淋しい瞳に映しながら。
哀しそうに、柔らかく微笑んで、彼は目を閉じた。
◇◆◇
そのまま、どれほどの時間が経ったのか。
回復用の魔石の補充に行ったゴウトを待つライドウの視界で、赤く染まった生き物がゆらりと動く。
ソレは赤い血の涙を瞳から流しながら、ゆっくりと歩み、ライドウの前に立った。
自分に何を言う権利も無いことが分かっている悪魔召喚師はただ黙して、彼の虚ろな瞳を見る。
「アヤ」
ぽつりと、知らぬ名をつぶやいて、その赤い生き物はライドウを床にゆっくりと押し倒した。
「ここに居たんだ。アヤ」
……貴方はそんなにも優しい声で、その人を呼んだのか。
「お前、今まで、どこに行ってたの?」
……貴方はそんなにも愛しげに、その人を見ていたのか。
「きっと、帰ってきてくれるって思ってた」
二度と帰ってこない者の頬を、血に染まった手で、優しく撫でる。
「もう、俺を置いていかないで、アヤ」
自分を置き去りにした者に、血の味のする唇で、甘く口づける。
「愛してるよ。アヤ。お前だけだ」
届くことの無い愛の言葉を最後に、己の胸の上で、カクリと気を失った彼を。
ライドウはそっと、抱きしめた。
◇◆◇
……なぜ、今、気付かなければならなかったのだろう。
この優しすぎる悪魔に癒えぬ瑕痕をつけたのは、自分だということに。
なぜ、今、知らなければならなかったのだろう。
この血に染まった悪魔が、かつて失った誰かを、今も愛していることに。
そして、
なぜ、今、
思い知らなければならなかったのだろう。
この哀しい魂を持つ悪魔を。もう、自分は。
――― 何よりも、愛してしまっているのだと ―――
自分には、その資格の、欠片も、無いのに。
――― 光が強ければ強いほど、闇もまた、深い。
その自明の理を。彼が抱える底なしの闇を。その叫びを、苦しみを悲しみを、痛みを。
耳を塞ぎ、目を閉じ、知らぬ振りをして、ここまで来た報いがこれなのだ。
おそらくは。
呪いにかかったのは、僕だ。
そう、ちいさく呟いて。
ライドウは固く目を閉じた。