Der untreue Knabe 〜不実な若者〜




大正二十年 帝都
筑土町 銀楼閣
鳴海探偵社


「ただいま戻りました」
「あ、お帰り」
今回の依頼は早かったんだね〜。出て行って半日もたってないよ〜
と、探偵社所長の鳴海は机上のマッチ棒模型?をいじりながら顔を上げずに言った。

「早い……。そうですか、……そうですね」
若者は少し眉を寄せた。思い出せない何かを思い出そうとするように。

学生服に学帽、黒い外套に身を包んだ書生姿の若者の、通り名をライドウという。
若くして帝都の守護を任ぜられた眉目秀麗、才気煥発な美丈夫である。

「依頼相手が大層だったからさ。また大変なヤマかと思ってたんだ。
車椅子の外国人のご老人に、いわくありげの喪服着た美女だもんな〜。
まあでも、怪我もなさそうだし、元気で帰ってきてくれて、嬉しいよ」
『そういうことは、きちんと相手の顔を見て言うものだ。鳴海』
「ああゴウトちゃんもおかえり。僕に鳴いてくれるなんて珍しいじゃん」

若者の後を離れぬ黒猫の、名をゴウトという。
その姿は仮初めのもの、内実は若者のお目付け役である。
培ったその深い経験で若者に的確な助言を与えるのだ。
ただ、召喚師と悪魔以外にはその声は猫の鳴き声にしか聞こえない。

嫌がるゴウトを抱こうとする鳴海と、その手から逃れようとするゴウトを残して
黒い外套を羽織った若者は音も無く部屋を出て行った。

――― パタン

ドアの閉まる音に鳴海とゴウトが振り向いたときには、もうそこには誰も居なかった。



◇◆◇


自分に与えられた部屋に戻り、その身を整えた若者は屋上へと上がった。

若者には頭を整理する必要があった。
若者はかつて無いほど、戸惑っていたのだ。自分自身に。
今回の依頼の前と後で、自らが明らかに変わっていることを若者は誰よりも理解していた。
自分自身も管の中のモノ達も、尋常でないほどに経験値が上がっている。見た目の数値は以前と変化が無いように改ざんされているが、そのようなモノ、実戦になれば、一目瞭然だ。
そして何より。

「封魔せずとも、会話で仲魔になるとは」

以前は弱点を突き、弱らせて、強制的に管に吸い込んで仲魔としていたのだ。
相手が望む望まないなどは一切関せずに。
だが先ほど道で出あったウコバクは封魔もしないのに若者にこう言ったのだ。
「おお。サマナーじゃねえか。相変わらず男前だなぁ。俺を仲魔にしろよ!」


なぜ、思い出せない―――

若者の今回の依頼内容の記憶には夜の闇のように深い空白があった。
概要は覚えている。荒廃した土地で何者かと接触したのだ。
その者の力を確かめるために一度目は戦いを、二度目は直接戦わずにおこうと罠を仕掛けた。
結局は、二度目もその者の知力が勝り、直接相対することになったが。

そして、三度目は?

若者にはそのモノの顔かたちも、戦った後の詳細も、記憶にないのだが、
おそらくそのモノを仲魔にしたのだろうと若者は思った。
なぜなら。


――― キイ
とドアが鳴き、ドアの陰から黒猫が顔を出した。

『どうした。十四代目』
「ゴウト」

お目付け役に問うても無駄であることを若者は理解している。
恐らくゴウトは覚えているのだ。依頼内容のその全てを。
覚えているのに、話そうとはしない。

依頼を達成した後にアカラナ回廊に戻ったとき―――若者がはっきりと記憶があるのはその時からなのだが――― ゴウトはかつて無いほど焦った様子で、ひどく気遣わしげに若者に言ったのだ。
『大丈夫か、ライドウ、しっかりしろ。ヤツのことはもう仕方ないのだ』と。

なぜ、そんなにもゴウトが焦るのか。
不思議に思った若者は次の瞬間、驚きと共に納得したものだ。

若者は泣いていたのだ。ぽたぽたと、しとどに、頬を濡らすほどに。
物心ついてから泣いたことがない己の涙の、その理由も、
張り裂けるような胸の痛みの理由も分からぬままに。

その後、ライドウの記憶に瑕疵があることをしかりと認識したゴウトが、意外にもそのことで、どれだけ安堵したように見えたことか。

―――覚えていないのは不要な記憶だからだ。
必要な記憶ならば、この若者を心底大事に思っているお目付け役が、話さないはずは無い。
それが分かっていても、若者は納得できなかった。

「戸惑っている。自分が自分でないようだ」
『……』
「知らなかった力がある。思いも寄らなかった気持ちがある」
『十四代目』
「そして、記憶と同じように、心まで穴があいたように」
―――虚ろだ。


……少し、時間が必要だ。お前にも我にも、と
そうゴウトが言って立ち去った後も、若者はしばらく動かなかった。


やはり若者にはそのモノの顔かたちも、戦った後の詳細も思い出せないのだが、
きっとそのモノを仲魔にしたのだろうと若者は思った。
なぜなら。

(えー。なんで、強引に管に入れちゃうの?会話してみろよ!お前なら絶対余裕だから)

「誰か分からない貴方。貴方が僕に会話で仲魔を作るやり方を教えたのですね」


(うーわ。お前、執り成しヘタ!俺が話した方がマシマシ!!もっと練習しろよ!)

くす。
「酷い言われようだ」


桜の花弁のように、少しずつ舞い散る記憶。
交わされた言葉の断片が、割れた硝子の欠片のように若者に降り注ぐ。
そして、少しずつ、切り刻まれていく心。

「欠片だけでこれほど痛むものを―――全部、取り戻したらどうなるのでしょうね」

痛みを耐えるように若者はこぶしを握り締め、眼下を眺めた。

夕暮れの中、帰途に急ぐ人たち。
子供の笑い声、夕食を作る匂い、灯っていく家々の明かり。

ここは自らが守る土地。
大切な人達が居る場所。


(お前の帝都では、お前の大事な人がたくさん待ってるんだろ?早く帰ってやらないとな)


――でも、貴方はここには居ないのですね」


そして、足元に忍び寄る、夕闇の赤と金の輝きを恐れるように、
何よりも大事なモノを思い出せない不実な若者はその場を立ち去った。





Ende

帝都top




題名はGoetheの怪談のように怖い詩より