新しい薔薇




私の知り合いの知り合いが、……しちゃってさ。
まあ、お気の毒……。
で、気の利かない友人が見舞いに行ったらしくて。もう大変。
え?大変って?
ちょっと心の病になっちゃってたらしくて、警察沙汰に。
ええ!何が、あったの?何が、気が利かなかった、の?






築土町、入り口付近。


ぺちゃくちゃと語る女性達の声。
待ち合わせになかなか来ない彼のことを、心配していたせいかその会話は妙に僕の中に残った。
暫しの後、あっさりと、次の話題へと会話を移した彼女達を残し。
僕は、彼を、探しに、行った。


川端で、袴の裾をきゅ、と絞りながら。
くしゅん、と、可愛い音を立てて、彼が、くしゃみをする。
彼の前には、何度も何度も頭を下げる、若い母親。
その腕には赤ん坊、傍にはやはり濡れて、汚れた、乳母車。


近くに住む人達が、家から手拭いを持ってくるのが、見える。
手を振って遠慮する彼に、押し付けられる幾つもの、おせっかい。
何て分かりやすい、何て心が温まる、その光景と、彼の嬉しげな困ったような笑み。
ああ、彼の許しも得ない内に、拭き始めている輩まで……僕の許しも得ない、内に。


屈託の無い柔らかな笑顔の彼は、そよ風のように涼やかにこの地に馴染んだ。
親切で、朗らかで、押し付けがましさなど全く無い、透明なその優しさに惹かれて、
知人以上の地位を望む老若男女が、どれだけこの町に潜んでいるかを知る学生は嘆息をひとつ。
彼が知れば、「お前、それ、自分こそがだな!」と、即行で言い返すであろう悩みを胸に秘めて。





その友人も赤ちゃんを産んだばかりだったらしくて。
って、ことは、連れて行っちゃったの?!
そうなのよ。それで、その赤ちゃんを見たとたんに。
見たとたんに?
半狂乱になって、暴れて、自殺しようとした、とか。





歩む速度を速め、彼に触れるその不埒な腕を押さえて、にっこりと礼を言う。後は僕が、と。
ニャア、と。ゴウトが柔らかく批判する。僕の心が狭すぎると。
ええ、狭くて結構ですよ。
僕の心にはもう、この、嘘吐きの優しい悪魔しか、居ないのだから。


ああ、ライドウ。ごめん。待ち合わせに遅れて、と彼がすまなそうに言う。
いいですよ。事情は、よく分かりますから。……とても、よく。
あ……うん。そうだよな。……ええと、この後の予定も流れたな、ごめん。
いえ、またの機会にしましょう。それより、大体拭けたら早く帰って着替えないと。


風邪を引きます、と、心配そうに奇跡の微笑みを浮かべる学生を見て、遠くで黄色い声が上がる。
む、また以前とは色が変わったな、と髭を揺らす黒猫は、相乗効果かと、これまた嘆息する。
ありがと、そうするよ。(人前じゃ、地獄の業火で乾かすわけにも、いかねーもんな)
そう学生の耳元で囁く、水も滴るいい悪魔がこれまた黄色い声を発生させるのを、見て。


今日は依頼がすぐ終わりそうだから、浅草に、遠出をしてみようかと、約束をしていたのだ。
時空が違う故に、多少は相違点もあろうが、懐かしいのでは、無いかと、そう、思って。
それいいね、と嬉しげに笑った彼の表情を、そのまま、信じた、から。……でも。
でも、と、思う。貴方は、本当に、僕が、見ている、貴方、なのだろうか。


どうか、この町が、人々が、……僕が、貴方を傷つけていなければ、いい。
もし、傷つけたなら、どうか、傷ついたと、悲しんで、見せてくれれば、いい。
……でも、きっと、貴方は。ああ、可愛い赤ちゃんだね、と、にこりと笑って。
血で濡れた叫びを、独りで、こっそりと、乾かして、しまう、のだ。





……でも、本当にその友人も、気が利かない、わよね。
そうよね。ホント、そうよね。
自分が失ったものを、目の前で見せ付けられるなんて、どれだけ辛いか。
うん。また、買いなおせるモノなら、いいけど。
もう二度と、同じものは、戻らない、もんね。
そうよねぇ。






Ende

帝都top


失ったもの、二度と戻らないもの。でも、だからこそ。
今、手の中に残る大切なこと、に気づく可能性を信じたい。



いえ。主の「この薔薇」に気付いていたライドウさんなら、許してやるよ、と仲魔達が言うもので。

以下は、今回の題材に傷つかれた方のみ、ご覧ください。

どうしようかと悩んだのですが、二度と戻らないもの、として、最も強く分かる話、ですので、
使わせていただきました。そういう私も経験者、です。ちょうど、この秋風の吹く時期、でした。

……何事も二つ以上の側面がある、ということを、@ラスファンの方は知る方が多いですが、
結果的に私はとても家族を大事に思うようになりました。それまで以上に。
戻ってこないもの。でも、だからこそ、分かること。忘れないで生きて行きたいです。