黙せ



Heiß mich nicht reden,heiß mich schweigen,
語れとはのたもうな。(もだ)せとのみ告げたまえ。

Denn mein Geheimnis ist mir Pflicht;
秘密を守ることが、我の責務ゆえ。


アカラナ回廊。

コツリ、コツリと響く靴の音は、その男の常のものに比すると、どこか鈍く、硬い。

迷いがある、と。
本人も周囲も分かるその楽の行く先に居るのは、言葉という音を操る魔物の中の魔物。

「来ると思ってたよ。雷堂さん」

週に一度の逢瀬――― は、シュラがライドウの記憶を奪ってからは、これまで為されなかった。
その必要が無くなった、から。
シュラの内には有り余る程の、むしろ一個体には不要なほどのマグネタイトが潤沢にあった故に。

「なぜ、アイツの記憶を消した」
単刀直入な問いに、返るのは悪魔の苦笑い。相変わらずだね、雷堂さん、と。

「覚えていても、何にもならない」
「なぜ、そう言い切れる!」
「雷堂さんだって、分かってるはずだ。俺はもう、“堕ちた”」
「……ッ」

余りにも軽く投げられるその告白に、瑕のある男はその相貌を歪める。

「落ちて、墜ちて、堕ちた。もう元には戻らない。戻れない。何をしたって。でも、ライドウは」
「ライドウはまたきっと心に瑕を負う。せっかく治ったのに。せっかくあんなにきれいになったのに」
「今のライドウに適わないことなんてない。今のライドウに手に入らない人の幸せなんて無い」
「ライドウは幸せになるべきなんだ。俺のことなんか、忘れて。このまま帝都で皆と一緒に…」

常に無く口数の多い悪魔。その故と愚かさに、自らで気付いたか。ゆるゆるとシュラは口を閉じ。

「……人にとって、俺の記憶なんて、毒にしかならない」
いつも、ずっと、そうだった、と。やがて小さな声で紡がれた、寂しそうな声は。

「我はそうは、思わぬ」
瞬時に、迷い無く返された真っ直ぐな声と、視線に絡め取られて。
意地っ張りな悲しい悪魔の顔を、くしゃりと歪めさせた。

(貴方はいつも、優しいね。雷堂さん)



◇◆◇



うん。本当は、俺が怖いだけなんだ。
多分、ルイに頼めばライドウの「生きている間」ぐらいの猶予はもらえる。

帝都でも、魔界でも、ボルテクスでも、どこでもいい。
ライドウの人生、丸ごと奪って、死ぬまで誰にも渡さずに生きていくことは、きっとできる。
でも。

「でも?」

俺は怖いんだ。雷堂さん。
だって、ライドウは美しいヒトだから。俺は醜い悪魔だから。
いつか。きっといつか。錯覚が解けて。きっと、ライドウは俺を嫌いになる。

俺を憎んで、俺を罵倒して、俺から逃げ出したいって、思う日がいつか、必ず来る。

「でも。そのとき、俺はきっと正気じゃいられない」
きっと。許せなくて。離せなくて、ライドウを滅茶苦茶にしてしまう。

――― だから。

「逃げるのか?」
「うん」

だから。逃げる。この帝都から。ライドウから。人の営みから。己の欲から。
もう何も壊したくない。奪いたくない。この地では。この地から。

それは本当の気持ち。最強の悪魔の、弱い臆病な心の内。
そしてその結論こそが、この帝都にとっての最良だと分かりつつ、雷堂は苦い声で呟く。

「我は納得はしていない」
「らいどう、さ」
「だが。黙っていることは、できる……そういえば、そんな詩があったな」

Heiß mich nicht reden,heiß mich schweigen,(話せと言わないで。黙っていろと言って)
Denn mein Geheimnis ist mir Pflicht;(秘密を守ることが、私のつらい務めなのですから)

「それ、ゲーテの?」
「ああ……何がおかしい?」
「だ、って。それ、女の子の、」
少女の心の、詩だよ。あはは、可愛い!雷堂さん!めっちゃ可愛い!!と、笑い転げるシュラは。

そんなに笑うな!と怒ったように、でもホッとしたように顔を赤くするこの不器用で優しい男が、
そうと知っていて、わざとその詩を選んだことを、もちろん承知していた。



◇◆◇


「刻限か」
「うん」

そろそろ帰らないと、と立ち上がり。今までありがとう、と礼を言いかける悪魔に。
そんな言葉はいらん、と、男は仏頂面を作る。

「最後の、マグネタイトは要るか?」
悲しい雰囲気を壊そうとか。どこか冗談めかしたようで、どこか寂しい響きがこもるその問いに。

「いや、もう俺は」
と、言いかけて。

「……うん。お願いするよ、雷堂さん」

そう言って、微笑んで。シュラの指が伸びるのは、雷堂の顔。美しい瑕。
ゆっくりとそれを撫でながら、そろりと近づいてくる悪魔の孤を描く唇にその意図を知る。

「……いいのか」
「最後だから」

(見ているぞ)
(見ているから)

「承知、した」
「……ごめんなさ、」

謝るな、と微かな囁きで叱責し。右腕で、バサリと外套を広げて、悪魔の鳥をその中へ。
“誰”からもその肌が見えぬように覆って、囲って、閉じ込めて、でも必要以上には触れずに。
左手の人差し指でシュラの顎をクイと、上へ。

その瑕ゆえか、常の黒よりも少し狭い気がする瞳に映る金は、何かに気付いてクスと笑う。

「これ、邪魔」
「すまぬ」

悪魔の爪先でピンと頭上に跳ね上がった学帽が。
パサと床に落ちた音が合図だったように、人と悪魔の影は重なり。

(……ッ)
耐え切れぬような誰かの息の欠片と、微かな、本当に微かな、何かが立ち去る気配。
小さく消えていく、誰かと同じ、誰かの黒い靴の、音。

(行ったな)
(……うん)

(ならば、もう良かろう)
(え?)

触れ合う寸前、唇の真上で落とされた苦くて優しい言葉に、悪魔は不器用な男の気遣いを知る。
痛いほどに。

バサ、と外套を跳ね上げて、そっとシュラから一歩離れて。男が問うのは直球の疑問。

「淋しくは、無いのか?」
「無いって言えば嘘になるけど」

「我がついていってやっても、良いぞ」
「!」

ほんの少しの間隙を置き、悪魔の瞳が赤く染まっていくのに気付いて。雷堂は慌てる。

「冗談だ」
――― お前の記憶を消されてはたまらん。

「雷堂、さ」
「お前は、お前の記憶を毒だと言うが。ひとつ尋ねても良いか?」
「何を?」
「独逸語で、毒のことを何というのだ?」
「毒?……たしか、Gift」
「ならば」
――― 我にとっては。いや、我にとってもお前との記憶は、贈り物だ。大切な。

言葉を失ってしまったシュラの、頭をぽんぽんと軽く叩いて。
照れたように学帽の縁を引き下げ、くるりと背を向けて。

では、また会おう。我のところはお前の実家だからな。いつでも嫌になったら帰って来い。

と、無茶苦茶な論理の別れの言葉を言い残して去っていく、姿勢の良い後姿を見ながら。

(そんな貴方だから。そんな人達が居るから。
俺は、ライドウを連れて行けないんだよ。雷堂さん。もちろん、貴方も)

そう心で呟いた悪魔も。去っていく人も。そのどちらもが。
先ほどのゲーテの詩の続きを、知っていて。けれど、最後まで言わなかった。





Ich möchte dir mein ganzes Innre zeigen,
私は貴方に、私の心の全てを打ち明けたい。

Allein das Schicksal will es nicht.
けれど、運命はそれを許さない。



Ende


帝都top




なるほど「雨」のプラトニック版でしたかと。美味しいぞ雷堂。そして怖いぞライドウw
独逸語詩は作中のとおり、Johann Wolfgang von Goethe の作品です。
(実は雷堂エンドもあったりするんですが、ほら今書くとライドウさんの祟りがw)