「なあ、ルイ」
「なんだね」
「コイツが言ってた、Séraphitus(セラフィトゥス)、って何?」
おや。お前が知らない言葉があるとは、と微笑む保護者の腕の中で、
俺、フランス語は苦手なんだよ、発音もクリアじゃないし、と拗ねたように養い子は返し。
確かにお前の好きな言語とは、少し趣が違うね、とルイは肯く。
「それは、バルザック、という男の書いた小説の主人公の名前だよ」
本来の題名は 『Séraphita(セラフィータ)』だけどね。
「え。どうして名前が違うんだ?」
「ざっくり言えば、両性具有の主人公なのだよ」
「…って、ことはセラフィータが女性名で、セラフィトゥスが男性名?」
「ご名答」
ああ、だから、コイツ、ずっと男性名ばかりを連呼してたのかぁ、とシュラがちらり、と見る方向には
美しい装飾が施された金の小さな丸いテーブル。その上にあるのは、円筒状のガラスの器。
その中に浮かぶのは、透明な液に位置を固定された、緑の、丸い、天使の眼球。
「ふふ。彼は徹底した女嫌い、だからね」
「ふうん、そう、なんだ。…じゃあ、つまり」
このカタチは、見たくないのね?と、クツクツと笑いながら、シュラはそのカタチを変える。
「おやおや。はしたない。仮にも女性が一糸も纏わぬとは」
この方が、扇情的だよと寝台に流れる薄布をふわり、とその柔らかな肢体にかぶせながら、
ルイもまた、そのカタチを変える。白い夜具をまとった、金の髪のしなやかな美女に。
「くすくす。ルイまで。…ノリいいね。じゃあ、コッチ同士で、ヤルの?」
「たまには、こういう趣向もいいだろう。それに」
(お前の仲魔を傷つけ、罵倒したザフィエルには何よりもの、苦痛だろう?)
そうしたかったのだろうと耳元で、囁かれて、悪魔の中の悪魔はフフ、と肯定する。
「ホントに、悪趣味だね。ルイ」
「今更だろう?そして、お互い様だ。可愛いシュラ」
そうだね、と、細くなる瞳は紅の月。そこから零れ落ちるような青い光に白い指先を滑らせて。
やはり、こちらの肌の方が柔らかい、と笑む保護者に、ルイもでしょ、と魔少女は甘く笑う。
互いに普段よりも柔らかな、胸の膨らみを合わせながら、クスクスと残酷に笑う二人の魔女は。
視界を閉ざすことのできぬ、瞼を持たぬ眼球の前で見せ付けるようにゆっくりと口付けを交わした。
◇◆◇
「ル、イ」
「何だね」
「これ、以上は、イヤ、」
「ふ。そうだね。私も、そうだ」
これ以上は、見せてやりたくないね、と。
己が脱ぎ捨てた夜着を、ガラスの壜にパサリと放り投げてその視界を遮った少女は。
ふ、と安心したように息を吐く、己の最高の芸術品の、象牙の肌に。
その白い指先で、すう、と目に見えぬ絵を描き、美しい音楽をその場に響かせた。
◇◆◇
「むしろ、今のお前は“Armida”だと、思うけれどね」
「“アルミダ”?」
――― 何だろう。凄く。凄く力を感じる名前。
「誰の名前?」
「昔の、女の名だ」
「ルイが使った女?」
「ご名答」
「強かった?綺麗だった?私よりも」
「ふふ。これは珍しい。嫉妬してくれるのかい」
そんなわけじゃないけど、と。拗ねたように視線を逸らす悪魔の表情は。
さしもの魔界の王の満足げな笑みを誘うに、十分で。
「ああ、もう!思考回路が変!……そっか!!行為の後で、このカタチだからか!!」
「おや、残念」
あっさりと離れる愛し子の肌に、ルイは苦笑する。
基本、雌は“家”を持ち、“子”を守る。だからこそ身内を得たがり、離したがらない。
自分のその狭い世界を守るためなら、どんな愚かなことでもする。
離れていこうとする、当の子供を殺してしまう雌すら実在する。けれど。
(普段以上に強い私への執着が、その性の影響を受けている、とすぐ気付いたか)
「だから、私はお前を気に入っているのだよ」
「え、何か、言った?」
ああ、やっぱコッチのほうがスッキリー!と伸びをするシュラは既に、少年のカタチ。
(しかし。これほどあっさりと執着を解かれるのも、面白くは無いね)
“アレ”には雄でも雌でもヒトでも獣でも、記憶が無くとも、執着が無くならぬのに、ねぇ。
「ねえ、シュラ」
「な、なんだよ」
こっちに、来て、と手首をつかんで、ぽふん、と寝台に座らせて。
戸惑う、ほぼ同じ高さの少年の肩に、ふわりと両腕をまわして、白い檻を作った少女は。
その地獄の誘いのような恐ろしい台詞で、混沌の王の顔を蒼白にさせた。
「じゃあ、こんどはこっちのカタチでしましょうか?」
◇◆◇
絶対イヤだーと阿鼻叫喚の声をあげたシュラに、冗談だよと笑ったルイは。
それでも、じゃあ代わりにこれぐらいならいいかい、とシュラの頭をクイと引き寄せ。
「え」
今度、ぽふんと頭が落ちたのはルイの膝の上。
角の位置を計算済みだったのか、絶妙な角度の横向きで。
(膝枕?ルイが?)
ええええええええと混乱する様子を愉しみながら、少女は少年の頭を撫でる。
「…っ」
「不満かい?」
せっかく、振り切った執着。
ヒトリは寂しい。誰かと共に居たい。必要とされたい。傍に居て欲しい。
――― それが一番欲しいモノじゃなくても。
そんな弱い心を引きずり出した魔王は、してやったり、と笑み。
そんな醜い心を引きずり出された悪魔は、ズルイよ、ルイ。と固く目を閉じた。
「ああ、シュラ」
「なに?」
「そろそろ、足りない、だろう」
(あの子狐が傍に来てから、お前の渇望が増した。やはり、求め合うか。記憶が無くても)
「気付いて、たんだ」
(よく分からない。分からないけど、足りない。前より空虚さが酷い。酷くて、辛い)
「もう一体、“供給先”を増やしてはどうかね」
(可哀想に。本当に欲しいモノは誰よりも傍に居るのに。大切すぎて手が出せない…か)
「増やす?ロキと、リン以外にもう一体?誰を?」
(どうして、だろう。特に夜。クズノハを抱きしめて寝ると、飢えが増す、気がする)
「Séraphitus(セラフィトゥス)の意味を誰よりも知っている者を」
(だからこそ。余計にアレは激昂したのだよ。お前への他者の執着が許せなくて)
「……え?それ。誰?」
(フランス語が堪能な仲魔、なんて居たか?)
「居るだろう。ほら。エティエンヌ・アルフォンス・ラ・フレーシュ」
「!」
「分かっただろう?」
「…アイツを、使うの?」
「不満かい?」
「や。いや、そうじゃない、けど。でも」
「アレの、お前への執着が怖いかい」
「そうじゃ、ない」
「白い翼を、更に黒く染めるのが、怖いかい?」
「………」
「アレは、きっと、あの金の髪、一筋一筋の先までお前に染まりたいと、願っているよ」
「…考えさせて、くれ」
少しの沈黙の後。やっぱり、ズルイよ、ルイ。と囀った膝の上の小鳥に。
何のことかねえと、偽りの親鳥は微笑んで、もう一度その黒い髪を撫でて、やった。