深淵





Ungern entdeck' ich höheres Geheimnis. −
(本当は打ち明けたくないのです。このような奥深き秘密は)

Göttinnen thronen hehr in Einsamkeit,
(孤独の深淵に女神たちが厳かに座しておられる)

Um sie kein Ort, noch weniger eine Zeit;
(そこには空間も無ければ、時間も無い)

Von ihnen sprechen ist Verlegenheit.
(その女神たちについては語りようが無い)

Die Mütter sind es!
(それは “母たち”なのです)


Faust― Der Tragödie zweiter Teil




――― ルイ。

――――― ルイ。

「ルイ」
「ここに、居るよ」

ふふ。珍しい。お前がそのように私を呼ぶなど。

「どういう風の吹きまわ……」


甘い。雌の声で。何度もルイと呼ばう悪魔の前で、一瞬、硬直し。
地獄の王は、躊躇いも無く膝を突く。己が作ったはずの悪魔の前に。

「ルイ」
「貴女がたでしたか。 Die Mütter

お久しぶりでございます。またお会いできるとは、と丁重な挨拶を返すルシファーに。
少年の器に入った何かは、ゆうるりと雌の笑みを浮かべて見せる。

つい、と当然のように差し出された手の甲。
見慣れたはずの黒と緑の斑紋の上に、口付けるルシファーの仕草には淀みは無く。
最上級の敬愛の口付けを嫣然として受ける悪魔の表情には、何の戸惑いも無い。


「ルイ」
「はい」

『ルイ』
「はい」

《ルイ》
「はい」

何度も呼びかけられる仮初の名。
話すたびに色が変わる声に、ルシファーはひとつひとつ几帳面に返事を返す。

「此度は、その姿か」
「お気に召さぬのは承知致しておりますが」

お許しを、と頭を下げるスーツ姿の魔界の王にシュラのカタチで女達はくすりと笑う。

「まあ良い。あの娘姿もよう似合うておったけれど」
「お褒めに預かり、光栄の至り」

「あれはどこの時空であったかの」
「黒き南の極、かと」

おお。そうじゃそうじゃ。黒き陰にて、各地の母達を集めて。じゃったの、と。
巷の女性が定例の女子会でも思い出すかのように、楽しげに頬を緩める悪魔の表情は稚く。
それゆえに、背後に潜む深淵が、とてつもなく恐ろしい。

「あの行く末はどうなったのであったかのう」
「それは時空によって、異なりますゆえ」

「そうか。そうよの。しかしあの人間は魅力的であったの」
「そう、でございましたか」

「うむ。真っ直ぐな瞳をしておった。夫にするにも良し、息子にするにも良し」
「ただの人間ごときでございますよ。物好きでいらっしゃる」

「“タダノ”人間で、あるからこそ魅力的なのであろ?」
「さすがに“母君方”」

よく分かっていらっしゃる、と。
白い娘の姿でその人間と接触した物好きな魔王は、微笑んで同意した。




◇◆◇




「ルイ」
「はい」

「時間が無い」
「承知しております」

(貴女がたが出てこられたということは、そういう、ことでしょう)

――― もう、()たない、か。

(惜しいな)

ルシファーの金銀妖眼がほんの少し、狭められる。
その表情が惜しむのは、彼の器か精神か力か、それとも。
魔界の王のわずかな感情の機微をどこか愉しむように、母たちは言葉を継ぐ。

「ルイ」
「はい」

「お前の望みは何?」
「……もはや自分でも」

分からなくなっております。Die Mütter

――― そう。
――― 分からない。

私よりも人を愛したアレに反逆したかったのか。
私よりも愛された“人”を引きずり落としたかったのか。
自分自身の能力を。力を頭脳を智恵を試してみたかったのか。
私自身、だけでなくアレをも生み出した混沌の深淵を見極めたかったのか。


「分からない?何が?」
「何もかもが」

そう。
自分が何を求め、何を欲していたのか。

そして、今。
私は目の前のコレを、どうしたいのかどうしてやりたいのか。

それすら。分からなくなっている。


「ほほ。正直者は、好ましい」
「それは重畳」

「ただ、この器は、そろそろ限界じゃな」
「……はい」

その体の両の掌を見つめながら、開いて閉じてを数度繰り返して。淡々と母達が嘆く。
最後の器。最強の端末であったが。惜しいことじゃと。

「少しだけであるが、器の修復をしておいた。いま少しは保つ」
「ありがたきことにて」

「これの負担になるゆえ、我等はもう恐らくは出て来れぬ」
「それは。残念至極な」

「次にまみえるのは、“これ”が我等を呼ぶか、もしくは―――
「終わりのとき、でございますか」

「そうじゃな。“始まりのとき”、じゃ」
「なるほど」

「それまでそなたも息災で。ルイ。我等の憎い息子にして、愛しい娘」
「は」

プツリと、電源を落とすように一瞬で途切れた操りの糸。
パサリと、寝台に崩れ落ちた器を大事そうに抱きかかえて、ルシファーはその内を探る。

(修復、か。確かに最適値にバランスが調整されている)

これならば。最高値まで力を発動させても壊れまい。
その戦いの様の美しさを想像して、うっとりと笑んだルシファーは。けれど。

“母達”が残していった最後の問いを思い返して、その笑みを苦笑に変えた。






「お前の望みは何?」


「……もはや自分でも」


分からなくなっております。Die Mütter


――― 母君方




Ende


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