「いいから、早く乗りたまえ」
「いいよ。歩いていくから」
アルカトラス社の地下駐車場。
珍しく定時に切り上げて、車に乗り込もうとしていたそのときに耳に飛び込んできたのは
聞きなれた氷川課長の声と、もう一つ。聞きなれない、けれど忘れられない“少年”の声。
「君は、またそんな我侭を…っ」
「いいだろ。たまには。…しつっこいのは嫌われるよ氷川サン?」
パシリと払う音の後。
足早に歩むスニーカーらしき靴音の後を追いかける、硬質の革靴の響き。
「由良君、いいかげんに……」
「ちょっ、何す……、放せ、って」
「由良さん!こっちだ!!」
――― え?
どうして。そんなことをしてしまったのか、分からない。
けれど。気がつけば僕は、驚いたような表情で駆け寄ってきた彼を助手席に引き入れて。
エンジンをかけ、アクセルを踏んで。
氷川課長を置き去りに、その場から彼を浚った。
◇◆◇
「助かったよ」
ありがと。ライドウさん。
柔らかい声の響きに、我に返る。
ここは?……ああ。会社から少し離れた公園の、駐車場か。
自然の声が懐かしくなると時々訪れる、郊外の緑豊かな土地。
「あ……っと、いや。礼など不要だ。……いや、不要、です」
丁寧語に変わった語尾に、怪訝そうに相手が首を傾げる。その仕草はどこか懐かしい。
(懐かしい?)
「……ああ、そっか。克也さんから聞いたんだ」
「今まですみません。てっきり……」
――― 年下だと、ばかり。
「あはは。いいよ。俺いっつも高校生ぐらいに見られるから」
むしろライドウさんなんて、扱い丁寧なぐらいだよ。気にしないで。と笑まれて安堵し。
呼び方も今までどおり、“由良君”でいいよ。とウィンクされて、そんなわけにはと焦り。
ふと。彼がかけているサングラスに眼が行く。
似合わないとは言わないけれど。もったいない。あの美しい瞳が見れないなんて。
「若く見られるから、それで、なんですか?」
「何が?」
「そのサングラス」
「ああ。日中はな。俺、目が弱いから」
――― え。
「直射日光はツライ。いろいろと」
「そう、ですか」
また、要らぬことを聞いてしまったと若干落ち込んだ僕を気遣ったのか。
窓の外に視線をやった貴方が、話を変える。
「ああ。夕焼けだ」
話題に誘われたように見ると、確かに美しい西日。
「綺麗ですね」
サングラスに映る夕陽を見ながら、彼に語りかけると。
「だよね」
と、柔らかい笑みが返ってきて、嬉しい。
(嬉しい?)
やがて。これぐらいの残照なら、大丈夫かなと。
そう言いながら、サングラスをはずす仕草に心臓がドクリと音を鳴らす。
初めは閉じられていた瞳が光に慣らすように少しずつ、開いて。
夕陽の残り火を受けて、その色が赤く。赤く光る。
(……っ)
「え? ライドウ、さ……」
◇◆◇
「君って。そーゆー趣味の人?」
抱きしめて。捕まえて。
先ほどまで唇を重ねていたその相手に落ち着いた声で尋ねられて、我に返る。
「……っ」
僕は、一体、何を。
恋人、どころか真っ当な知り合いですら無い相手に。いきなり。何を。
抱きしめて?押し倒して?
――― キス、を?
「す、すまな…っ」
謝りかけて、目の前の瞳の色に言葉が止まる。
謝ればいい話なのか。謝りたいことなのか。
そうじゃない。きっと、そういうことじゃない。
「じ、自分でも、よく分からな、」
ああ。そうじゃない。
よく分からないのにいきなりキスされたなんて、どんな気持ちになるだろう。
どれだけ、嫌われてしまう、だろう。
「そんな、つもり、じゃ」
では、どんなつもりなのかと、問われても答えられない言い訳が続く。
ただ。たまらなくて。
たまらなくなって。
また貴方があの赤に染まって、そのまま消えていきそうで。
(また?)
混乱し、惑乱し。
言葉を止めたまま。固まってしまった僕の返事を待たずに、彼が勝手に結論を落とす。
「ま。いいけど」
え?
あっさりと下された無罪判決に心が跳ねる。
「ライドウさん。綺麗だから」
(今まで逢った中で誰よりも綺麗な人だから)
だから。
「もう一回、シテいい?」
……え?
「試してみる?」
――― 悪魔のキス。
今度も僕の返事を待たずに。
僕の背に回されたしなやかな腕の感触と。
そっと触れてきた彼の唇の冷たさが、僕の感覚を根こそぎ奪っていった。
Ende
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