水を呑まうとした


底がぬけた柄杓(ひしゃく)で水を呑まうとした

〜 尾崎放哉 〜









夜の闇にその苦しみを隠して、お前はやってきた。
我は驚かなかった。
我も同じ苦しみを隠してきたからだ。
お前は狂ったように我を求め、我をまさぐった。
そして我もまた。



夜の闇にこの悲しみを零して、僕は彼の所に行った。
彼は驚かなかった。
そう、彼もまた僕と同じ悲しみを持つもの。
そして僕は彼を、彼は僕を、
気狂いのように求め、苛んだ。



お前は我の顔の瑕を執拗に舐めた。
ああ、そうだ。
あの悪魔はどれだけこの瑕を優しく愛したか。
そしてお前はどれだけそのことを妬ましく思っていたか。
我はよく知っている。



僕は彼の顔の瑕を執拗に舐めた。
ああ、憎い憎い憎らしい、愛しい、醜い、美しいこの瑕。
僕の顔にこれがあったなら、
あの悪魔は僕だけを見てくれただろうか。
僕を連れて行ってくれただろうか。




互いの身体に求めたのは、あの愛しい悪魔が残した影。
その指に、その肩に、その唇に。
どこかに、あの哀しい悪魔が居ないかと、ただひたすらに探して、求めて、まさぐって。





ふと、お前の体の瑕に気付く。
己でわざとつけたと思えるその傷は、綺麗に治っているものと、醜く歪むものと。
その意味するものに気付き、我は呻く。
あの悪魔の苦悩を思って。



僕は何度も自分の体に傷をつけた。
傷を負い、血を流すその度にあの優しい悪魔が、僕を、僕だけを、
その哀しげな瞳で見てくれると、癒してくれると知っていたから。
それはあの悪魔が去ってからも。何度も。



あれを追い詰めたのは、お前だ、と詰まってやりたくなる。
あれは優しすぎた。きれいすぎた。哀しすぎた。
だからこそ、我もお前も他者も、
あれを愛してしまったのだけれども。



何度頼んでも、あの悪魔は僕を傷つけようとはしなかった。
僕は、傷つけて、ほしかった、のに。
その瑕さえあれば、きっともう離れなくてすむのだ。
そう、どこかで僕は思っていたのだ。




刹那の快楽が二人を救い、すぐまた奈落へと突き落とす。
もうあれはどこにも居はしないのだ。
もう行ってしまったのだ。
これほどまでに愛しいと思う愚かな人間たちを置き去りにして。






あれの震えは、我がどれほど熱を移そうとも止まることは無かった。
なぜ、我はあの時、気付いてやれなかったのか。
あれは、ずっと泣いていたのだ。
お前以外の者に抱かれることに脅えて。




彼に抱かれたあの悪魔の瑕を僕は何よりも愛した。
だって、それは「僕の為に」つけてくれた瑕。
うっかりと僕のその喜びを口にしたとき、
あの悪魔が見せた哀しい悲しい瞳を僕は一生忘れないだろう。




あれがどんな思いで、我のところに来たか、我に抱かれたか。
なぜお前は分かってやらなかった。
お前はあれのその苦しみも悲しみもすべて踏みにじったのだ。
だが、それは我とても。




どう伝えれば良かったのだろう。
僕がどれだけ愛しているかということを。
でも、あの哀しい悲しい瞳を見て、僕はやっと思い出したのだ。
もう長い長い間、あの悪魔の笑顔を見ていなかったことに。




痛みをより求める者は、それを求め。
痛みを与える方こそが痛いのだと知る男はそれを与えた。
そして貫かれた苦しみに悦ぶ者は、貫いた苦しみに耐える者の瑕を何度も、何度も舐め上げた。





どこかで我も分かっていたのだ。
その行為が癒しになど、ならぬことを。
それでも我はあれが欲しかった。狂うほどに欲しかった。
それほどにお前を思う故に悲しむあれは美しかった。




どこかで僕も分かっていたのだ。
もう僕にはあの悪魔を幸せにする術など遺されていないことを。
それでも僕は離したくなかった、放したくなかった。
それほどにあの悪魔は僕のすべてだった。




あれがしがみついていた背中はお前の背中だった。
あれが呼んでいた名前はお前の音だった。
我は気付いていた。
気付いていて、知らぬ振りをしたのだ。




あの悪魔が彼を選んだなら、それでもいいと思った。
あの悪魔をこの世界に引き止めてくれるなら、誰でも、良かった。
たとえこの胸がその痛みで引き裂かれても、
ただ、あの悪魔を見続けていたかった。




ああ、恐らくはこの行為すら、愚かな優しいあれの思惑の内なのだ。
他者では癒せないこの傷を、より近い我らならば
癒せるのではと思ったか。
それほどにあれはお前を心から想い、憂えていたのだ。




恐らくはこの行為すら、あの悪魔の好意の内か。
他者では癒せないこの痛みを、カゲボウシならば可能ではと、
愚かすぎるほど優しいあの悪魔は思ったのか。
それほどに僕はあの悪魔を追い詰めた。そして、見放されたのだ。









同じ痛みを抱える獣たちは同じ速さで、同じ拍子でそれを癒そうとする。
その動きは速度を増し、お互いを追い詰める。
追い詰めた先に何も待っていないことをお互いによく知りながらも。









ああ、
そんなにも


優しい悪魔を

哀しい生き物を


我は

僕は


ただ
傷つけることしか、できなかった



あんなにも、癒してやりたいと思ったのに

あんなにも、傍に居たいと願ったのに




・・・こんなにも、深く愛しているのに












◇◆◇











「・・・あれは、いつも結界を張っていたと、思わぬか」

荒い息を吐きながら、倒れこんだ者達は互いの瑕を舐めるように話す。

「結界」

「どんなに触れ合っていても、触れすぎぬよう、どこかで線を引いていた、ように、思う」

そう思うのは我だけかもしれぬが、と男は息をつく。

・・・ああ、そうでしたね。と、もう一人が言う。

「僕がどれだけ傍に来て欲しいと願っても、けして、その線からこちらへは来てはくれなかった」

そして、また(・・)、置いていかれたのですよ、僕は。 と男は虚ろに笑う。



「・・・どちらが、哀しいのだ。我と、お前と」

「・・・分かりません。でも、おそらく」

どちらも。



「・・・では、このざまは、『底がぬけた柄杓で・・・』、といったところか」

刹那の熱情が去った男達は、共に天井に言葉を放り投げる。

「確か、尾崎、の?・・・そう、ですね」



「・・・呑めるはずも、あるまいに」

――― この渇きが癒せるはずも。


「でも、その掬う刹那だけは、そう、思ってしまうのですよ」

――― この渇きが癒せるのではと。



「・・・どちらが、愚かなのでしょう。僕と、貴方と」

「・・・分からん。だが、おそらく」





――― どちらも。






Ende




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尾崎放哉は種田山頭火に並ぶ無季自由律俳句の第一人者
「咳をしても一人」はあまりにも有名

「底が抜けた柄杓で…」は大正13年に発表。

以上、辻褄合わせという名の後書き。