――― アテルイ
涼やかな声が、己を喚ぶ。
濁り澱む大気を、瞬時に浄化するような、透き通る少年の、音。
節が無くとも、拍を取らずとも、それは極上の楽。天上の音色。至極の響。
喚んだか、と、返したい詩は響かない。
それは止められている。その美しい響きで己を喚ぶ、その少年の意志で。
召喚主が為した、呪封――― 鉄鋼製の口枷に、よって。
故に。
アテルイは唸る。くぐもった叫びを落とす。
他に、この主に意志を届ける方法が、無い、故に。
――― 外してやろう
常よりも早く、白く美しい指が呪印を結ぶ。
その舞のような動きに見惚れている間に、アテルイの呪封は首飾りとなって喉下に、落ちた。
ええい、今日という今日こそは、と。
恫喝の歌を響かせようとして、アテルイは、ふと違和感に気付く。
どこにも、敵は、居ない。
今、コイツは、己を「喚んだ」だけだ。
己は、まだ、何も、コイツの、用を、為して、いない。
なのに、なぜ、口枷を。
――― アテルイ
ラーイド、と謡う前に、先に唄われる。・・・その涼やかな声で。
――― ヤナギタ、という人に会ったのだ。
・・・相変わらず、他人との意志の疎通に欠けるヤツだ。
これで人の世を渡っていけるのか、と、妙な心配をしかけたところに。
――― 今まで、悪かったな。もう、口枷は外しておいてやろう。この先、ずっと。
「ラ、ラーイド?」
信じられない歌を聞いて、アテルイは驚愕する。
――― 不満か?
自分を表現することに不得手でも、相手の表現を受けることには長けている主が、そう、返す。
「い、いや。不満じゃない。不満じゃないが」
一体何故?・・・それは召喚時の交換条件、としての、いわば使役の為の餌のようなものだ。
それを。恫喝もせぬのに、自ら放棄するとは、一体。
・・・もしや、コイツ、己を放つ気か?
ゾクリ、と。感じたのは、喜びではない。
愚かな、とアテルイは嘆く。この己が、ここまでコイツに、縛り付けられていたか、と。
「なぜだ」
――― だから、ヤナギタ、という人に会ったのだ。
「そいつが、一体何だという?もしや、そいつが」
己に代わる、魔"人"か?
感じる想いは、これは嫉妬か。落胆か。
なぜ、自由への渇望より、解放への喜びより、こんな想いが、強く己を縛る!
アテルイの混乱に頓着せず、主は淡々と歌を奏でる。
――― 彼は、学者だ。
「は?学者ぁ?」
――― 各地に伝わる、言葉や文化を、探求している、らしい。
「そ、それで、どうして、己の封印を解くことに繋がる!」
――― 悪かったな。アテルイ。
「・・・相変わらず、だな、お前、他人の話を、聞け」
――― 彼に、教えてもらったのだ。
「・・・だから、お前、己の話、聞いてるか?」
――― アイヌは、文字で言葉を残さぬ民で、ある、と。
「・・・」
そうだ。と。アテルイは、思う。
故に。謡う、のだ。
自らの欲するまま、節をつけ、拍を取り、抑揚を乗せて。
この想いが、残るよう。
人の心を響かせ、同調させ、いつか再び、その口唇から、この想いが、その歌が奏でられるよう。
納得の色を滲ませるアテルイの瞳を見ながら、ライドウは歌を続ける。
――― それと。アイヌの言葉で、僕の名が、どういう意味を持つのか、を。
カッ、と。血色が無いはずの己の肌が紅潮するのを、アテルイは感じる。
「ラ、ラーイド!」
――― 不思議に、思っていた。なぜ、お前が、僕を、そう、呼ぶのか、と。
「い、いや、ち、違う。深い、意味は、無いのだ。そ、それは」
今更に過ぎる言い訳をアテルイは為そうとする。
しかし。
文字が無い国を故郷とするモノにとって、音に為す言葉は、どれほどに大事で尊いものか。
それは、思考のある者にとって、自明の理。
――― ありがとう。
「や、やっぱり、お前、己の話、聞いて、ない、だろう」
――― 聞いている。僕の大事なウタリ。
「お前、それ」
これも、教えてもらったのだ、と。
アクマ殺しの微笑みを落とす、若き悪魔召喚師に。
ライという音が、「死」を意味する言葉を持つ国の魔人は。
夕陽のように赤い顔を隠すように、その巨体を彼の前で跪かせた。
・・・口枷は外されたが。
どうやら、もっと強力な枷が嵌められたぞ、と思いながら。