――― リン
それは。その名は。
シュラを愛し、シュラを守り、誰よりもシュラの信頼を得る、あの、美しい、幻魔の。
彼が認めた、最愛の主だけが呼ぶことを許された、愛称。
(クー・フーリンだと!あの怪物がか!!)
驚愕するライドウの目の前で。
ゆっくり。
ゆっくりと怪物の容が、変わる。
逆立って、どろどろと血を流していた髪は、しなやかな美しい長い黒に。
見るもおぞましき、“ねじれ”た巨躯は、白い、美しい曲線を飾る鎧を纏う痩躯に。
正しい位置へ戻った瞳は、聡明さと堅実さと、そして、今は深い悔恨と苦悩の色を
その秀でた額につけた、眉庇の下に、見せる。
やがて。そっと、主の肌から、己の不埒な指を手を腕を、名残惜しげに、離し。
ディアラマを唱えて、己がつけた主の傷を、癒し。
パサリと、己の白いマントを外して、主の体を大事そうに覆い。
今にも口づけんとしていた、その唇を諦めて、跪き、代わりに主の手の甲へ唇を当て。
それだけでは気が済まぬと、ばかりに。
更に頭を降ろし、愛しくも崇敬する主の足の甲へと、その額をつけて。
非礼を詫び、主の広い心に感謝を表す、その美しい悪魔は、確かに、かのケルトの英雄。
「……もういいから。早く水桶に入って、熱を冷ましておいで、リン」
ほら、皆も手伝って〜と、何事も無かったかのように笑うシュラの声に。
やっと、避難場所から出てきた仲魔達も、また、ホッとしたように笑いながら、
あまりの申し訳なさに固まったままの、さっきまで狂犬だった猛犬をかついで。
よっこいしょー!と、準備していた水桶へと、つっこんでやった。
◇◆◇
「えーと。ほら、FFだったら、バーサクとかってやつ?」
ドラクエなら何だろ?メダパニ?……いや、ドラゴラムかな。この場合。……ちょっと違うか。
「えふえふ?……ばーさく?」
どらくえ? めだぱに? どらごらむ?
説明しようとするシュラに知らない単語を一気に並べられて、さすがのライドウもパニック状態だ。
……もちろん、先ほどのいろいろな衝撃も手伝っているので・・・無理も無いが。
「狂戦士、って、言ったら分かる?」
あいつ、強すぎるからさ。戦いすぎるとたまーに、発作起こすんだよ。
「発作」
「うん。……で、発作起こすと、変身するだけじゃなく、敵味方の区別もできなくなっちゃうから」
とっとと元に戻すために、さっきのを、と説明するシュラに。
「・・・それで、・・・どうして、あの」
女性体の貴方が、裸になる、必要が・・・?
これだけは、どうしても確かめておかねば、と。ライドウは意を決して尋ねようとする。が。
言いよどんだライドウの肩を、3つ目の水桶にクー・フーリンを突っ込んできたロキがポンと叩く。
「本当は、150人だったらしいぜ。ケルトではさ」
「何が?」
横で顔を赤くしたシュラを気遣ったか。続きはライドウの耳元で囁かれる。
(狂戦士化したクーに裸を見せる女の数)
(ひゃくごじゅ……)
絶句するライドウを見て、ロキは更に笑う。
それ見て恥ずかしくて硬直したヤツを捕まえて、頭を冷やすために水桶に突っ込むんだとよ。
「それでも、ああだって言うんだから。いやーホント、ケルトの英雄は大したもんだ」
と。呆れたように言う彼らの前には。
あまりの熱量に爆発した一つ目の水桶と。沸騰してボコボコ音を立てている二つ目の水桶と。
……やっと、温泉並みの温度で済んだ、三つ目の水桶。
「ほ、ほら。もう、この世界に、まともな女性なんて、居ないしさ」
で、女性体の悪魔150体、集めるのも、全員に裸になってもらうのも、大変だし。
「俺だったら、いざとなったら戦えるし、何とかなるだろって」
試してみたら、俺一人脱ぐだけで大丈夫だったんだ、助かったよ、と笑う主は、
自分一人の裸体が150人のそれに匹敵する、その本当の意味に、当然ながら、気付いていない。
「「………………」」
切な過ぎる恋心を、未だに全くもって、欠片も理解してもらえぬ、彼の下僕を気の毒に思いつつも、
わざわざ真実を告げて、恋敵に塩を贈ったりしないロキとライドウは沈黙を保つ。
そんな彼らに気付くわけも無く、既に男性体に戻ったシュラは不思議そうに首を傾げる。
「ええっと。でも、変なんだよね」
「何が、変なんですか?」
「いや、ずっと、ここんとこ発作無かっんだよ、リン」
大体これまで、あんなふうに俺に跳びかかったりしなかったのに。ましてや噛み付くなんて。
「そうなんですか?」
「うん。いつも俺が脱いだら、それだけでオッケーだったから、今回も油断してた」
「そう、だったんですか」
「不思議だろ」
「不思議ですね」
……何でだろ?
……何ででしょうね。
心底、不思議そうにする主と、同じく不思議そうに少し赤い顔で首を傾げるライドウと。
「……(ほんとにこいつらは……)」
二人の超鈍感者と、その前で脱力するロキのところに、頭の冷えた今回の問題児がやってくる。
「主様。先ほどは、真に申し訳も無い……ご無礼を」
苦しげに深々と跪き、またしても額づきかねないリンに、慌ててシュラが声をかける。
「ああ、もう気にしないでいいって。……ただ、今も、話してたんだけど」
今回はどうしたの?リン。マガツヒ不足だったとか?・・・だったら、ちょっと対策考えないと、と。
心配そうに話す主に返るのは、何かを押し込めたような、涼やかな声。
「いえ。……今回の……原因は、自分で、よく、分かっておりますので・・・」
「そうなの?」
「はい。ですから……一つだけ、お願いが、ございます」
「お願い?」
「……はい……どうか」
どうか、その外套を、素肌の上に纏われることは、お止めください。
二度と、私のこのように愚かなAttackを引き起こされぬよう、と、言いかけて。
聡明にして賢明な下僕はその願いを音にするのを止める。
わざわざと、この鈍感な主達に、その心の在り処を気付かせてやることも、あるまい。と。
「リン?」
不自然に止まった会話に、怪訝そうに首を傾げる主の、足元に額づいて。
「いいえ。分不相応なことを申し上げるところでした」
どうか、お許しを、と嘯きながら、その甲にそっと、口付けて。
ケルトの英雄は恐ろしい誓を己の心に立てた。