衣擦れの音が、する。
どれだけの間、ただ呆然と、目と耳と心を壊し続けるその現実を受け入れていたのか。
気付くと、地面に押し付けられるような圧迫感が消えていて。
魔王の存在がこの地より、移動したことが分かる。
ふと、全ては、悪い夢であったのでは、と、弱い僕の思考は逃げを打つ。
――― ああ。
何もかもが、夢であったなら、どんなに。
「……しばらくは異界化が続くように、していってくれたみたいだ、から」
落ち着いたら、鳴海さんところに帰って、ね、ライドウ。……ゴウトさんも。
パサリ、と着物を調えながら、優しい声で彼は僕の弱さを押し止める。
何事も、無かったかの、ように。静かな、声で。
――― そう、やって。貴方は、ずっと。
どんなに傷を負っても、誰にも気付かせず。
なんでもない振りをして、ずっと、生きて、きたのか。
……何も知らぬまま、傍にいた自分が、これほど憎いと思ったことは無い。
答えを返さぬライドウを暫し、沈黙して見やった後に、黒猫が簡潔に代返をする。
『……お前は?』
「魔界に帰ります。用を済ませたら、また一度、戻ってきますから」
それまで、よろしくお願いします。
分かった、と。堅い声で答えるお目付け役の返事を聞きながら、
ライドウはコツリと近づく足音にビクリと身体を強張らせ、地面へと顔を向ける。
ああ。近づく彼の足音が、彼と目を合わせることが、これほどまでに、怖い、なんて。
すぐ傍で止まった足音の主は、俯いたままのライドウを悲しげに見て、言葉をかける。
「時間が、無いんだ。ライドウ」
……悪いけど、記憶、消させて、くれるかな? 必要、なら。ゴウトさんも。
『我には、必要ない。シュラ』
黒猫は即答する。
『消去して起こる歪みを調整するモノも必要であろう。何より、もう』
無駄な力を使うな。……もう、それ以上。
ありがとう、と。ニコリと笑む気配が僕を震えさせる。
彼が、彼が傍に居ることが、これほどまでに、恐ろしい、なんて。
微かに震え、俯いたままの僕に溜息が落ちてくる。寂しそうな、哀しそうな、諦めたような。
ああ、違う。貴方が怖いから震えているのでは、無い。貴方のせいじゃ、ない。
そう、言いたいのに。言葉が出ない。
「ライドウ」
「……」
――― 記憶を消す、と貴方は言った。
分かっている。
それは、僕のため、なのだと。
「お願い。返事、して。ライドウ」
「……はい」
思わず声が出たのは。言霊の力に引きずられてか、それとも、その哀しい音に。
「忘れて」
「……何、を?」
「今日、坊と逢ってから、今までのこと」
「……」
やはり、と思う。理解、できる。僕には、きっと耐えられない。
僕が貴方を地獄に突き落とした張本人だった、などと。
今、僕が生きてここに居るのは、貴方がその心も体も悪魔に売り渡したからだった、などと。
この記憶を持ったまま、平気で貴方の傍になど、もう、居られない。
――― ああ、でも、この記憶を失ったら、僕はまた、貴方を。
「あと」
続けられる声に、胸がズクリと痛む。
……まだ、忘れなければならないこと、が?
言いあぐねるような、暫しの間を経て、どこか苦しげな声が残酷な言葉を落とす。
「"夜"、のこと」
「……夜?……いつ、の」
「お前が、俺の、……中に、触れた"夜"、全部」
「!」
驚いて、やっと顔を上げた僕に、瞳を合わせて、ニコリ、とする貴方。
その笑顔に、ズ、とゆっくり心臓が切り裂かれる音が、する。
俺は、何も、残せない。
それでも、いいのか。
――― まさか、あの夜の。あの言葉は。こう、いう、ことを?
「ぜん、ぶ?」
「うん」
あっさりと当然のように肯く彼の瞳の、その意思は固い。"予定通り"と言わんばかりに。
では……貴方は、初めから、何もかも、その、つもりで。僕に。
――― ああ、この、悪魔!