逢魔ガ時 20


衣擦れの音が、する。

どれだけの間、ただ呆然と、目と耳と心を壊し続けるその現実を受け入れていたのか。
気付くと、地面に押し付けられるような圧迫感が消えていて。
魔王の存在がこの地より、移動したことが分かる。

ふと、全ては、悪い夢であったのでは、と、弱い僕の思考は逃げを打つ。

――― ああ。
何もかもが、夢であったなら、どんなに。

「……しばらくは異界化が続くように、していってくれたみたいだ、から」
落ち着いたら、鳴海さんところに帰って、ね、ライドウ。……ゴウトさんも。

パサリ、と着物を調えながら、優しい声で彼は僕の弱さを押し止める。
何事も、無かったかの、ように。静かな、声で。

――― そう、やって。貴方は、ずっと。
どんなに傷を負っても、誰にも気付かせず。
なんでもない振りをして、ずっと、生きて、きたのか。
……何も知らぬまま、傍にいた自分が、これほど憎いと思ったことは無い。

答えを返さぬライドウを暫し、沈黙して見やった後に、黒猫が簡潔に代返をする。
『……お前は?』
「魔界に帰ります。用を済ませたら、また一度、戻ってきますから」
それまで、よろしくお願いします。

分かった、と。堅い声で答えるお目付け役の返事を聞きながら、
ライドウはコツリと近づく足音にビクリと身体を強張らせ、地面へと顔を向ける。
ああ。近づく彼の足音が、彼と目を合わせることが、これほどまでに、怖い、なんて。

すぐ傍で止まった足音の主は、俯いたままのライドウを悲しげに見て、言葉をかける。
「時間が、無いんだ。ライドウ」
……悪いけど、記憶、消させて、くれるかな? 必要、なら。ゴウトさんも。

『我には、必要ない。シュラ』
黒猫は即答する。
『消去して起こる歪みを調整するモノも必要であろう。何より、もう』
無駄な力を使うな。……もう、それ以上。

ありがとう、と。ニコリと笑む気配が僕を震えさせる。
彼が、彼が傍に居ることが、これほどまでに、恐ろしい、なんて。
微かに震え、俯いたままの僕に溜息が落ちてくる。寂しそうな、哀しそうな、諦めたような。
ああ、違う。貴方が怖いから震えているのでは、無い。貴方のせいじゃ、ない。
そう、言いたいのに。言葉が出ない。

「ライドウ」
「……」

――― 記憶を消す、と貴方は言った。
分かっている。
それは、僕のため、なのだと。

「お願い。返事、して。ライドウ」
「……はい」
思わず声が出たのは。言霊の力に引きずられてか、それとも、その哀しい音に。

「忘れて」
「……何、を?」
「今日、坊と逢ってから、今までのこと」
「……」

やはり、と思う。理解、できる。僕には、きっと耐えられない。
僕が貴方を地獄に突き落とした張本人だった、などと。
今、僕が生きてここに居るのは、貴方がその心も体も悪魔に売り渡したからだった、などと。

この記憶を持ったまま、平気で貴方の傍になど、もう、居られない。

――― ああ、でも、この記憶を失ったら、僕はまた、貴方を。

「あと」
続けられる声に、胸がズクリと痛む。
……まだ、忘れなければならないこと、が?

言いあぐねるような、暫しの間を経て、どこか苦しげな声が残酷な言葉を落とす。
「"夜"、のこと」
「……夜?……いつ、の」
「お前が、俺の、……中に、触れた"夜"、全部」
「!」

驚いて、やっと顔を上げた僕に、瞳を合わせて、ニコリ、とする貴方。

その笑顔に、ズ、とゆっくり心臓が切り裂かれる音が、する。

俺は、何も、残せない。
それでも、いいのか。


――― まさか、あの夜の。あの言葉は。こう、いう、ことを?

「ぜん、ぶ?」
「うん」

あっさりと当然のように肯く彼の瞳の、その意思は固い。"予定通り"と言わんばかりに。

では……貴方は、初めから、何もかも、その、つもりで。僕に。






――― ああ、この、悪魔!






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