トントントン、と。
リズムの良い、包丁の響き。
コトコト、と、何かを煮込む、鍋の声。
ふわりと宙に漂う、鰹のだしと、香ばしい、焼き魚の匂い。
コン、パカ、と卵を割り。
カシャカシャとかき混ぜて。
ジュッと、焼けた鉄板にそれを注ぎ込む音。
クン、と鼻をうごめかす黒猫をつれて、ライドウは水屋へと向かう。
「あ。おはよう、ライドウ」
「おはようございます……あと、お帰りなさい。シュラ。……ああ、僕がしますのに!」
疲れているのでは?と気遣う召喚師に、悪魔はにこりと返す。
「いや、平気だよ。大体、今日は俺の番だろ?こっちに着いた時間もちょうど良かったし」
幸せな音と匂いを創り出しながら、微笑む悪魔に人もまた、幸せそうな笑顔を返す。
「ありがとうございます。でも、思ったより早かったのですね。もう、1日ほどはかかるかと」
「ああ、意外にも、敵の攻撃が甘くてさ。……気が抜けるぐらいに」
「……シュラ?」
微かに暗くなる声の響きに、ライドウが怪訝さを感じると。
「えと。後は、お味噌汁にネギ入れて仕上げたら、終わりだからさ。お茶碗とか運んでくれる?」
誤魔化すように、明るい声が響く。
あ、それと、鳴海さんも今日、朝から仕事だったよね、起こしてあげてよ。と頼まれて。
せっかく二人きりでの愛の朝食が、と。
ブツブツと文句を言いつつ、ライドウは鳴海の部屋へと渋々、足を向ける。
ライドウの背を見送った後に、その思考の勘定に入っていない黒猫は、共犯者にニャアと鳴く。
『帰ったか、シュラ。……大丈夫か』
「大丈夫、ですよ。ゴウトさん。こっちも、大丈夫、なようで安心しました」
ちょうど炊き上がったご飯を混ぜながら、優しい声で返す彼は、見た目は以前と変わらない。
その微笑みも、何もかも。
けれど。
『世話を、かける』
「いいえ。……ただ、調整は必要なので。後、少しだけ、ここに、居させてくださいね」
もう、ちょっかいは出さないって、約束させてきましたから。……"全員"に。
キン、と表に出した強い意志に伴う力は、老練な黒猫の背筋を凍らせるほどに、凄まじく。
彼がもう、以前の彼では無いことを、知らしめる。……痛いほどに。
『すまない』
「こっちこそ、ですよ」
短い言葉の中に、たくさんの気持ちを含めて、彼らは心を交わす。
やがて。
「あー、いいにおい〜。朝はシュラちゃんのお味噌汁が一番だよ〜。やっぱ嫁に来て〜」
と、寝ぼけた声で、朝の挨拶もすっとばした問題発言を垂れ流す探偵所長を引き連れて。
「……鳴海さん、朝からふざけたこと言ってないで、とっとと、顔を洗ってきてください!」
何を言い出すんだ、この二日酔い!それは僕の台詞でしょうが!
大体、僕ですら、まだ想いを
伝えても居ないのに!
と心中で毒づく探偵助手が登場すると。
この探偵社を舞台とする大芝居をもくろんだ、大嘘吐きの悪魔は。
くす、と微笑んで。以前と変わらぬ、朝の食卓へと、皆を促し。
「あ゛〜、やっぱ、絶品。いやー酒飲んだ次の朝には、これだよこれ」
「ありがとうございます。おかわり要ったら言ってくださいね」
「……所長は甘やかすと、ろくなことになりませんから、それぐらい自分でさせてくださいっ」
……以前と変わらぬ、幸福な会話を、成立させる。
そして。
悪魔が、砂の上に建てた銀の楼閣の中で、ただ、黙して、美しい緑の目を光らせる黒猫は。
尖った剣山の上に、そっと置いた落雁のような、
指で押せば、はらり、ぱらりと、血を浴びながら、残酷に崩れゆくであろう、
そんな、泡沫の "日常" を見事に再生させた"魔"が、ひそり、と笑むのを見る。
満足そうな、けれど、けして不自然さを見せぬ、以前と変わらぬその微笑に。
――― もしや、こやつ、これまでも……!
と。
……これまでの、彼が居た、当たり前であったはずの日常全てが。
ずっと、この美しい魔に誑かされてきた逢魔ガ時であった可能性に黒猫はぞくりと思い当たる。
その怯え、に気付いたか。
「あっ、ツ!」
「シュラ?!」
「あれ、シュラちゃん。どうしたの?」
指と爪の間を、魚の骨に引っ掛けたみたいで、と。
心配げなライドウと鳴海に、大丈夫ですよ、と微笑んで。
その右の人差し指の先端を、そ、と、己の下唇に押し当てて。
慧眼すぎる黒猫にその金の瞳を向け。
美しい悪魔は、紅い唇の両端を、幼子のように、無邪気に、引き上げて、見せた。
――― 二人だけの、秘密、ですよ、と、言わんばかりに。