「貴方ノIRISが、何ヲ、ドコマデ、ゴ存知ダッタカ、私ニハ分カリマセン」
私のアヤメが、何を思っていたか、貴方に分からないように。
だから、私が貴方に伝えたことは、あくまで、私個人の単なる知識でしかありません。
生徒を気遣うように、落ち着いた声で教師が語る。
そして、Irisの結末は、今は、貴方には伝えません。
その結末は貴方が探し、貴方が決めるべきことだからです。
「デスカラ」
――― ですから、私が貴方にIrisを指導できるのは、ここまでです。
その、遠まわしな別れの言葉を聞いて、ライドウの体がピクリと揺れる。
「イツカ」
いつか、貴方がこの話を、自分の力で読めるようになった、そのときに。
貴方が、貴方自身で、結論を出せばよいと、私は判断します。
◇◆◇
さや、と。二人の髪をゆらして、風が吹く。
もう次の季節がやってくるのですね、と、髪を整えながら教師が呟き、ゆっくりと立ち上がり。
最後に、これだけ、と語る。
「タダ、一ツダケ、私ニモ分カルコトガアリマス」
「それ、は?」
「ソレハ」
私たちのIrisが、私たちを心から愛してくれていた、こと。
――― 死んでいく己の恐怖よりも、生きていく私たちの苦痛を憂えてくれたほどに。
「私ハ、彼女ヲ失ウコトデ、自分ガ傷ツクコトヲ恐怖スルダケデシタガ」
でも。本当は。
本当に怖かったのは、彼女の方でした。
自らの喪失が、ヒタヒタと背後から迫ってくる“残りの日々”は。
自分が沈み込んでいく深遠の闇を見ながら過ごして生きる時間は。
きっと、叫びだしたいほどに怖かったはずなのに。私はそれさえ気づかなかった。
その深い悔恨が篭る声音を聞いて、ああ、とライドウも思う。
(覚えてる。確か、あれは。ゲーテの『野ばら』。美しい調べの裏に隠された悲劇。
もう、逃げられる、わけも、ない、のに、と。彼が震えたあの日。
僕は、どうして、それに、彼の苦しみに、気がつかなかった。
怖いと。俺はもうすぐ居なくなるのだと。一人は怖いと。一緒に来てくれと。
どんなにか叫んでしまいたかった、こと、だろうに)
「ケレド」
けれど。彼女たちは。その恐れを出すことなく。
「私タチヲ、救オウト、シタ」
自分の存在の不在ごときで、愛しい人が生を倦むことなど、無いように。
けして安易に自らの破滅を望んだりしないように。
自分自身の幸せを、長く、熟慮、できるように。
「フフ。本当ニ罪作リナ花デス。Irisは」
こんなに美しい少年に、こんなに残酷な課題を、残して。
――― いつ架かるかも分からぬ、美しい天と地を繋ぐ橋を求める愚か者共を、残して。
◇◆◇
カサと聞こえた足音に、ゆっくりと教師が歩き出したのをライドウは知る。
「デハ。Aufwiedersehen.(また会いましょう) Herr Kuzunoha.」
大丈夫。私も貴方もいつかは、きっと Geistertor に、たどり着けます。
「ガイスタートア?」
「Ja. 入ッタモノハ二度トコノ地上ニ戻レナイトイウ、精霊ノ門」
「精霊の、門」
「ソシテ。貴方ハ、ヤハリ、ソノ門ヲクグルニハ若スギル」
「では、いつ」
いつまで、待てば。僕はたどりつける? 彼へと続く門に。
「・・・ソレハ、キット」
貴方の、長い、人生の最期に。
(貴方のIRISもそう思ったからこそ、貴方一人では到底解けないその課題を与えたのでしょう。
貴方が、後を追わないように)
そして、青い瞳の教師は。
顔を覆ったまま動かなくなった生徒の肩を優しくポンと叩き、
静かに、森を抜けて去っていった。