IRIS 18




まさか

これが、そうか

Irisの内容、だけでなく
これが、彼の言った、秘密か

俺のことなど忘れろと
生きろと。人を愛せと。幸せになれと

それが、できなければ

たとえ彼の所に、たどり着いても
絶対に、彼は、僕を




「俺は、絶対に、お前を、受け入れない」



「貴方ノIRISが、何ヲ、ドコマデ、ゴ存知ダッタカ、私ニハ分カリマセン」
私のアヤメが、何を思っていたか、貴方に分からないように。
だから、私が貴方に伝えたことは、あくまで、私個人の単なる知識でしかありません。

生徒を気遣うように、落ち着いた声で教師が語る。

そして、Irisの結末は、今は、貴方には伝えません。
その結末は貴方が探し、貴方が決めるべきことだからです。

「デスカラ」
――― ですから、私が貴方にIrisを指導できるのは、ここまでです。

その、遠まわしな別れの言葉を聞いて、ライドウの体がピクリと揺れる。

「イツカ」
いつか、貴方がこの話を、自分の力で読めるようになった、そのときに。
貴方が、貴方自身で、結論を出せばよいと、私は判断します。



◇◆◇



さや、と。二人の髪をゆらして、風が吹く。
もう次の季節がやってくるのですね、と、髪を整えながら教師が呟き、ゆっくりと立ち上がり。

最後に、これだけ、と語る。

「タダ、一ツダケ、私ニモ分カルコトガアリマス」
「それ、は?」
「ソレハ」

私たちのIrisが、私たちを心から愛してくれていた、こと。
――― 死んでいく己の恐怖よりも、生きていく私たちの苦痛を憂えてくれたほどに。

「私ハ、彼女ヲ失ウコトデ、自分ガ傷ツクコトヲ恐怖スルダケデシタガ」

でも。本当は。
本当に怖かったのは、彼女の方でした。
自らの喪失が、ヒタヒタと背後から迫ってくる“残りの日々”は。
自分が沈み込んでいく深遠の闇を見ながら過ごして生きる時間は。
きっと、叫びだしたいほどに怖かったはずなのに。私はそれさえ気づかなかった。

その深い悔恨が篭る声音を聞いて、ああ、とライドウも思う。

(覚えてる。確か、あれは。ゲーテの『野ばら』。美しい調べの裏に隠された悲劇。
もう、逃げられる、わけも、ない、のに、と。彼が震えたあの日。
僕は、どうして、それに、彼の苦しみに、気がつかなかった。
怖いと。俺はもうすぐ居なくなるのだと。一人は怖いと。一緒に来てくれと。
どんなにか叫んでしまいたかった、こと、だろうに)

「ケレド」
けれど。彼女たちは。その恐れを出すことなく。
「私タチヲ、救オウト、シタ」

自分の存在の不在ごときで、愛しい人が生を倦むことなど、無いように。
けして安易に自らの破滅を望んだりしないように。
自分自身の幸せを、長く、熟慮、できるように。

「フフ。本当ニ罪作リナ花デス。Irisは」
こんなに美しい少年に、こんなに残酷な課題を、残して。

――― いつ架かるかも分からぬ、美しい天と地を繋ぐ橋を求める愚か者共を、残して。



◇◆◇



カサと聞こえた足音に、ゆっくりと教師が歩き出したのをライドウは知る。

「デハ。Aufwiedersehen.(また会いましょう) Herr Kuzunoha.」
大丈夫。私も貴方もいつかは、きっと Geistertor に、たどり着けます。

「ガイスタートア?」
「Ja. 入ッタモノハ二度トコノ地上ニ戻レナイトイウ、精霊ノ門」

「精霊の、門」
「ソシテ。貴方ハ、ヤハリ、ソノ門ヲクグルニハ若スギル」

「では、いつ」
いつまで、待てば。僕はたどりつける? 彼へと続く門に。

「・・・ソレハ、キット」
貴方の、長い、人生の最期に。

(貴方のIRISもそう思ったからこそ、貴方一人では到底解けないその課題を与えたのでしょう。
貴方が、後を追わないように)

そして、青い瞳の教師は。

顔を覆ったまま動かなくなった生徒の肩を優しくポンと叩き、
静かに、森を抜けて去っていった。






だから、どうか。ここで。この人の地で。
幸せに生きて。ライドウ。





その、美しい、残酷な、そして。
いつ、どこで、聞いたのかすらも思い出せぬ、悪魔の願いを思い出しながら。



やがて。少年はポツリと、授業で学んだAnselmの台詞を呟いた。







「Es ist ein langer Weg, Iris, 」

長い道だ。イリス




「・・・aber ich finde keinen Rückweg mehr.」

けれど、もう僕には、帰り道が見つからない






Ende

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