IRIS 17




「もし。もしもだけど。俺を捨てることも忘れることもできなくて、また壊れそうになったら」


「俺があげたペンダント思い出して」






「待っていて、くれるでしょうか」
こんな僕でも。彼は、待っていてくれる、だろうか。

「“Ich habe dich lieber als alles auf der Welt.”・・・デシタカ?」
「それ、は」

クスリ、と笑って、教師はいつかの愛の言葉を、唱え。
その言葉をもらった状況が不明瞭なままに、けれど、思うだけで心が熱くなるそれを聞いて、
ライドウは頬を赤らめる。

くすくす。“世界中の何よりも愛している”とまで言われながら。
「自信ノ無イコトデスネ」
「・・・」

けれど、そう言われても、赤い顔のままただ黙ってうつむく生徒に、少しだけ居住まいを正し。
“Michael(より神に近きものを)Schneider(切る男)”の異名を持つ男は、問う。

「一ツダケ、教エテ欲シイノデスガ」
「何でしょうか」
「Herr Kuzunoha・・・。貴方ノ  ”I r i s ”モ、マタ」

――― 貴方の手の届かぬ所へ、行ってしまったのですね?

「・・・」
その問いに固まったまま答えないライドウを哀しげに見て。
懸命なる教師は、本来は教えないつもりであった“真実”を彼に告げることを心に決めた。


「Herr Kuzunoha.」
「はい」

「オボエテイマスカ? 『 I r i s 』 ノ物語ノ冒頭」
「冒頭?・・・In Frühling(春に)、ですか?」

「Nein.ソノ前ノ・・・日本語デハ、確カ “献辞”ト言イマシタカ」

――― 献辞。つまり、文章を著した者が、恩人や協力者に捧げる言葉。
しかし、さすがにそこまでは記憶していないと首を振るライドウに教師は解答を提示する。

「“Für Mia ”デス」
「フュア ミア?」

「ええ。für ハ、英語ノ for。ソシテ、Mia トハ、」
ヘッセが当時の妻Mariaを呼ぶときに使っていた愛称です。
これは、ギリシャ語の数詞、einerを示すheisの女性一格、ですね。

「・・・っ、ギリシャ語、です、か」
いきなりと専門的になった内容にさすがのライドウも瞳を瞬かせる。

「アア、デスカラ、難シイコトハトモカク」
つまり。“Für Mia ”とは「唯一の女性の為に」、という意味です。

なるほど、「唯一の女性」かと。
愛しい相手を思い起こし、己の心に重ね合わせて視線を揺らす少年は、続く教師の言葉に驚く。

「デスガ、」
――― この美しい物語が完成した6年後に、ヘッセはMaria夫人と離婚しています。
離婚して、他の女性と新しい人生を育むように、なります。

「・・・!」





あれ、ちょっと秘密が、あるんだ。もし、その秘密が解ければ。


「俺に、会いに来て、くれても、いいよ」




「人、トハ、ソウイウ生キ物ナノダト、私モ思イマス」
人生は長い。そして一人を想い続けて生きるには、人は弱すぎる。
「何ヨリモ。Herr Kuzunoha。貴方ハ、若イ」

どんなに今は辛くても、どんなにもう二度と誰も愛せないと思っても。
いつかこの痛みを忘れるときがくる。いつか再び誰かを愛せるように、なる。

「・・・そんな!僕は・・・っ」

たとえ、他の人間が皆、そうなのだと、しても。
そうやって優しい忘却と共に生きていくのが、人間なのだと、しても。
僕は。・・・、彼を忘れて他の誰かを愛して生きていく、ぐらいなら・・・いっそ。


けれど、真実に惑い、現実を拒み、混沌へと堕ちることを望む美しい少年の耳に蘇るのは
いつ聞いたかも分からぬ、残酷な悪魔の優しい言の葉。



――― でも、その秘密が解けない内は。


「俺は、絶対に、お前を、





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