「どうやら、かなりの大物だったみたいだよ。ライドウの先生」
欧州に○○殿下が留学された際のご学友、とか、ああご逗留先だったのかもだけど。
いずれにせよ、関係各所からかなり強い抗議があったらしいから、きっともう大丈夫だよと、どこか安堵したような声で鳴海が言う。
「では、あちらの皇族筋の」
驚きを隠さずに尋ねるライドウに、うん、そうみたいとあっさりと答えが返る。
「幼い頃から能力の高い方で周囲からも将来を嘱望されていたのに」
ある日、突然に家も名前も何もかも、捨てたらしい。
「・・・!」
「ああ!ただ、ほら、あの家系はそういうの、多いだろ?」
惑って、口元を手で覆ってしまったライドウに慌てたように所長は続ける。
「そういうの、とは?」
「・・・狂気の末に謎の溺死、とか、愛人とピストル自殺とか」
それも見た目の良い、能力が高い方ほど“そう”なりやすいって。
「よくあること、って感じだったのかもしれないな」
でも。ライドウから聞く限り、狂ったとか変人とか、そんなんじゃなさそうなのに。
何でまた、誰からも羨まれるような人生を捨てて、こんな東の地にまで来たのかねぇ。
◇◆◇
「崩壊ト、言ッテモ」
元々、砂上の楼閣だった人生です。むしろ壊れて良かったのですよ。その男にとっては。
そう、教師が笑ったのは表情を強張らせたライドウへの気遣いだったのだろう。
そして、と彼は話を続ける。
彼は、何もかも、捨てました。それまで築いてきた地位も名誉も富も、何もかも。
姿も変え、名前も変え、誰も元の自分を知ることのない遠くの地に移り。
「彼女ガ残シタ想イヲ、タドッテ、今モ生キテイマス」
彼女がくれた課題を抱えて。
IRISの意味を、探し続けて。
「・・・今、“その男”は、幸福ですか?」
「Ja. モチロン幸福ダト思イマス」
「な、ぜ。そう、断言を」
もう答えを出しても、彼女には会えないのに?
どれだけ彷徨っても、彼女のいる場所にはたどりつけないのに?
震える声を隠さない生徒に、教師は優しい瞳を向ける。
「Herr Kuzunoha. 覚エテイマスカ?」
「何を」
Augutusの、願いを。
「Augutusガ、望ンダコトハ、何デシタカ?」
誰からも愛される男が己の空虚さに耐え切れず、自殺しようとしたその晩に。
自殺を止めに来た優しい名付け親の魔法使いに、その歪な幸福の代わりに望んだことは。
「・・・どうか、僕の役立たずな古き魔力を取り除いてください、その代わり」
「ソノ代ワリ?」
ああ、思い出した。彼は、たしか、こう、叫んだのだ。
――― その代わり、僕が人々を愛せるようにしてください!
◇◆◇
「コノ国ニハ」
一期一会、という言葉が、ありますね。
しばらくの沈黙を経て、ゆっくりと教師は千利休が残したその言葉を呟き。
「一期一会」
ライドウもまた、その美しい言葉を復唱する。
――― その意味するところは。
貴方と出会ったこの時は、もう二度とはけしてやってこない、すばらしい時間。
だからこそ、大切に。今の自分が出来得る限りの最良のコトを、為したい。
なるほど、この教師にふさわしい言葉だ、と思うライドウの前で、彼は感嘆の溜息をつく。
「本当ニ、コノ国ノ、言葉ハ美シイ」
故郷を捨てて、行き場所を求めて、アヤメのことを知りたくて。この国に渡って。
「タクサンノ美シイ言葉を知リ、ソシテ」
たくさんの人を、私は愛することができました。
「フフ。ソウデスネ。母国トハ名前マデ変エタト言ウノニ」
母国で親しくなった日本の友人がわざわざと僕を訪ねてくれたりもしました。
今の僕の境遇が不幸であると、思い込んで。・・・ああ、当時の彼は留学生だったのですけれどね。
(捕らえられた私の所にまで、駆けつけて、助けてくれた、優しい、高貴なる友人。
・・・彼の、好意を、私は、受け入れることが、できなかったのに。彼は、いつまでも、私を)
「ソシテ、素晴ラシイ若者達ニ、タクサン出会エマシタ」
貴方ももちろん、その内の一人ですよ、と悪戯っぽくウィンクをされて。
思わず頬を緩めてしまったライドウはもちろん理解している。
この教師が、その若者達を守るために、 “何も残らないカタチ”で授業を進めたことを。
つまり。
その危険性を理解しながらも、授業を続けてくれたのだということを。
――― おそらくは、Irisを知りたいという、自分の願いを適えるために。
だから、Herr Kuzunoha。その男は幸福、なのですよ。
ライドウの悔恨を庇うようにそう言う教師の笑顔に、嘘は無い。
彼自身、未だにIRISの想いを正確には理解していないかもしれない、けれども。
「愛シイ人達ト、共ニ過ゴスコトデ」
自分の人生を見据えて、生き続けることできっと、いつか、Irisにたどりつける。
それが、どんなに長い道でも、Irisはきっと。待ってくれている。
"Im Geheimnis, das hinter allen Bildern liegt."
――― 全てのカタチの背後にある秘密の中で。