IRIS 15


「幸福には、なれないの、ですか。アンゼルムは」
二度とイリスに会うことも、できないのですか。

硬い声で落とされる質問に、教師は困ったように少し首を傾ける。
「幸福、トイウ概念ハ、難シイモノデス」

この国で七色である虹が、違う国では五色であり、二色でもあるように。
受け取る人の思想・生き様・価値観といった要因で、全く同じモノが、違うモノに変わる。

誰からも愛され、物質的にも精神的にもこれ以上なく恵まれているはずの男が不幸であるように。

「・・・」
その静かな教師の言葉に、

「・・・ねえ、ライドウくん、・・・知ってる?」
「何を、ですか?」
「ライドウくんって、“帝都の守護者”なのよね。だから」
いつも、帝都を。帝都に住む私たちを大事にして、守ろうと、して、くれる。
自分の身や心を砕いてでも、務めを果たそうと、してくれる。そんなライドウくんのことを。

「どれだけ、私達が、大切に思ってるか、知ってる?」



困ったように告げられた、年上の、おっちょこちょいな姉のような女性のその言葉を思い出し、ピクと反応するライドウを、教師は優しい視線で見やる。

「ダカラ、コレハ アクマデ私ノ解釈デスガ」
Anselmは幸福になれたのだと、思いますよ。・・・ただ。
「ただ?」
「私ハ、今ノ貴方ニ、ソノ“幸い”ハ、来テ欲シクナイ」

貴方の周りの、貴方を愛する人すべてが、おそらく同じことを思うでしょう。
(きっと、貴方のイリスも。そう、思ったのでしょう。だから、こんな、課題を)

知れば知るほど、求めれば求めるほど、真理が遠ざかるような、
――― 生きて、生きて、生き続けなければ、けして掴むことのできない命題を。

「・・・」
黙って、うつむいてしまったライドウを気遣ったか、教師は隣に座るよう、促し。

「少シ、昔話ヲ シマショウ」と、言った。



◇◆◇



昔、といっても、ほんの数十年前の話です。
ある国の資産家に若い息子がおりました。見た目も悪くなく、何をさせても人並み以上にやりこなすその息子を、家族は誇りに思い、周囲は好意を寄せ、皆が彼を愛しました。

「誰からも愛される男・・・まるで、Augustus(アウグスツス)の、ようですね」
「エエ。ソウデス」

あなたの言うとおり、彼はAugustusのように他者の好意を当然のように受け取るのみの、傲慢な男に育ちました。けれど、やはり人は彼のそんな歪さに気づくことも無く、地位や能力や見た目といった表面的なことだけに捕われたまま、彼を愛し。

「彼ハ、ソンナ周囲ヲ見下ゲテ、利用シテ、生キテイマシタ」
「・・・」

「ヤガテ彼ハ恋ヲ、シマス。異国カラ来タ、友人ノ妹ニ」
ふふ。ええ、彼もまた求婚を断られるのですよ。アヤメという名のその女性に。
IRISの意味を調べてください、と不思議な問題を提示されてね。

「愚カデ傲慢ナ、ソノ男ハ。他者カラ初メテ与エラレタ拒絶ヲ受ケ入レラレマセンデシタ」
ええ、そうです。貴方に教えたアウグスツスの、ようにね。
その後に彼が為した愚かな行動の数々は、もう語るのさえ、無駄でしょう。

苦しげに嗤う教師のその表情に、ライドウはその“愚かな男”が誰であるのかを知る。

彼が、彼女が示したその言葉を知ったのは、愚かにも彼女が亡くなってから、でした。
遺品の中に、“私”の母国語であるその作品があるのを知った彼女の兄が。

「アイツハ、キット君ニコソ、持ッテイテ欲シイダロウ、ト」
私の家に、その遺品を、IRISを持ってきたその日に。初めて。

彼女が長の病に苦しんでいたことも、彼女が私に何を願っていたかも。
もう、すがりつく肉体すら、この世に無いのだと、いうことも、そのときに。やっと。

――― そして。

「Dann brach sein Leben hinter ihn zusammen」
(そこで、彼が経てきた人生は、崩壊しました)





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