「何ぞあったか。クズノハ」
「……いえ。何も、ございま」
「刃先は嘘を言わんぞ」
必要以上に殺気を放っておる、と言われてクズノハは黙り込む。
「迷いのあるときは、体ではなく心の鍛錬をするがいい」
「迷い。……心の鍛錬?」
「心が迷えば切っ先も迷う。敵につけこまれる隙を作る」
「……」
「狐一族の一員となっても、おぬしがシュラ様のお気に入りであることには変わりない」
つまり、卑怯な輩にとっては“足枷”になりかねぬと長老は念を押す。
「無駄な手傷は負わぬほうが良い。弱みは見せぬほうが良い。分かるな」
「はい」
けして姿勢を崩さず、キリと音がしそうな硬い声で答える弟子に、師匠は嘆息する。
「のう。クズノハ」
「はい」
「お前さんは、はりつめた糸じゃ」
「はりつめた糸?……僕が、ですか」
鏃に取り付けられ、的に向かってただ一直線に飛ぼうとする、糸。
的を失った瞬間に、迷って惑って地に落ちて腐り落ちてしまう、儚い糸。
「急ぐな」
「……」
「まだ、おぬしは幼い。まだ為すべきことは多い。まだ為せぬことも多い」
「……」
「生き急がずとも、きっと道はある」
「そう、でしょうか」
……急がなければ。早く力を得て、守らなければ、またあの人は僕から、逃げて。
また、手の届かない、どこかに。一人で。
「クズノハ」
「……はい」
「おぬし、友人はおらぬのか」
「友人、ですか。……いえ、」
強いて言えば、ジルでしょうか。とコテリと首を傾げる少年を見ながら。
ジルの恋路も本当に険しいのうと、おじいちゃん的発想に転じた脳内を修正して。
(心を許して相談できる相手が居れば、もっと柔軟性も出るかの……そう、じゃな)
「ふむ。久しぶりじゃが、やってみるか」
「え?長老様?何、を……!」
ボワンと怒った白い煙の中。
この術を使うのは久しぶりなんじゃが。と“もじゃもじゃ頭”を掻きながら現れたのは――― 。
「ナ、」
(なあ、もう引退したんだから。所長って呼ぶのやめないか?)
(そうですか?僕にとって、所長はいつまでも所長ですが)
(あーーーもう、頭固いよなーーーー。ライドウはーーーー!)
(くす。冗談ですよ。では何とお呼びしましょう)
(好きな呼び方でいいよ。ゴクツブシでも、シュラちゃんの教えてくれたニートでも何でも)
(では、たしか、そのシュラもほめていましたので)
(ほめてたぁ?シュラちゃんが?俺の?何を?)
(とてもきれいな、名前だと)
(なんだ。名前だけぇ?)
(くす。……いいえ)
――― 深くて、優しくて、いつも僕の弱さを受け止めてくれる暖かい人だと。
「“ナルミ、さん”?」
「……は?“ナルミ”?誰じゃ?それは……って、おわっ!」
いきなりに腰に抱きつかれて、わんわんと大声で泣き出した弟子に一瞬たじろいで。
それでも、少しの後にゆっくりとその頭をそっと撫でて、ポンポンと叩いてやりながら。
対象者の“いちばん信頼している相手”に映って見えるという、究極の化け術を披露した長老は、
困ったように上を見上げて、また心中で溜息をついた。
(可哀想にの。これまで、ずっと気を張って)
泣くこともできなかったかのう
◇◆◇
騒いで申し訳ありません、と頭を下げる子狐の表情はどこかスッキリとしている。
「まあよい。おぬしが乱れるからには、おぬしの主絡みだろうからの」
ピクリと揺れる少年の肩に、長は心中でやはりな、と溜息をつく。
(良きにつけ悪しきにつけ、あの方は何かを乱される)
「ご本人は凪いだ風のような御仁なのにのう」
「……はい」
何も執着せず何も拘泥せず何も、求めようとせず。けれど。
乱を呼び、乱を御し、乱を制して混沌を産む悪魔の中の悪魔。
「正に台風の目の如き御方。乱されるのは周囲のみ。か」
そう呟いて、ふと覗き込んだクズノハの瞳に、また、うっすらと透明な液がかかりだしたことに気付いて。狐の長は続く言葉は胸の中にしまいこんだ。
(台風の目か。ならば、乱の後は、そのまま空に消えていかれるのやもしれぬの)
――― 何の未練も、残さずに。