鳴る海 3




「何ぞあったか。クズノハ」
「……いえ。何も、ございま」
「刃先は嘘を言わんぞ」
必要以上に殺気を放っておる、と言われてクズノハは黙り込む。

「迷いのあるときは、体ではなく心の鍛錬をするがいい」
「迷い。……心の鍛錬?」

「心が迷えば切っ先も迷う。敵につけこまれる隙を作る」
「……」

「狐一族の一員となっても、おぬしがシュラ様のお気に入りであることには変わりない」
つまり、卑怯な輩にとっては“足枷”になりかねぬと長老は念を押す。

「無駄な手傷は負わぬほうが良い。弱みは見せぬほうが良い。分かるな」
「はい」

けして姿勢を崩さず、キリと音がしそうな硬い声で答える弟子に、師匠は嘆息する。


「のう。クズノハ」
「はい」

「お前さんは、はりつめた糸じゃ」
「はりつめた糸?……僕が、ですか」

(やじり)に取り付けられ、的に向かってただ一直線に飛ぼうとする、糸。
的を失った瞬間に、迷って惑って地に落ちて腐り落ちてしまう、儚い糸。

「急ぐな」
「……」

「まだ、おぬしは幼い。まだ為すべきことは多い。まだ為せぬことも多い」
「……」

「生き急がずとも、きっと道はある」
「そう、でしょうか」

……急がなければ。早く力を得て、守らなければ、またあの人は僕から、逃げて。
また、手の届かない、どこかに。一人で。

「クズノハ」
「……はい」

「おぬし、友人はおらぬのか」
「友人、ですか。……いえ、」

強いて言えば、ジルでしょうか。とコテリと首を傾げる少年を見ながら。
ジルの恋路も本当に険しいのうと、おじいちゃん的発想に転じた脳内を修正して。
(心を許して相談できる相手が居れば、もっと柔軟性も出るかの……そう、じゃな)

「ふむ。久しぶりじゃが、やってみるか」
「え?長老様?何、を……!」

ボワンと怒った白い煙の中。
この術を使うのは久しぶりなんじゃが。と“もじゃもじゃ頭”を掻きながら現れたのは―――

「ナ、」


(なあ、もう引退したんだから。所長って呼ぶのやめないか?)
(そうですか?僕にとって、所長はいつまでも所長ですが)

(あーーーもう、頭固いよなーーーー。ライドウはーーーー!)
(くす。冗談ですよ。では何とお呼びしましょう)

(好きな呼び方でいいよ。ゴクツブシでも、シュラちゃんの教えてくれたニートでも何でも)
(では、たしか、そのシュラもほめていましたので)

(ほめてたぁ?シュラちゃんが?俺の?何を?)
(とてもきれいな、名前だと)

(なんだ。名前だけぇ?)
(くす。……いいえ)

――― 深くて、優しくて、いつも僕の弱さを受け止めてくれる暖かい人だと。




「“ナルミ、さん”?」
「……は?“ナルミ”?誰じゃ?それは……って、おわっ!」

いきなりに腰に抱きつかれて、わんわんと大声で泣き出した弟子に一瞬たじろいで。
それでも、少しの後にゆっくりとその頭をそっと撫でて、ポンポンと叩いてやりながら。

対象者の“いちばん信頼している相手”に映って見えるという、究極の化け術を披露した長老は、
困ったように上を見上げて、また心中で溜息をついた。

(可哀想にの。これまで、ずっと気を張って)

泣くこともできなかったかのう



◇◆◇




騒いで申し訳ありません、と頭を下げる子狐の表情はどこかスッキリとしている。
「まあよい。おぬしが乱れるからには、おぬしの主絡みだろうからの」
ピクリと揺れる少年の肩に、長は心中でやはりな、と溜息をつく。

(良きにつけ悪しきにつけ、あの方は何かを乱される)

「ご本人は凪いだ風のような御仁なのにのう」
「……はい」

何も執着せず何も拘泥せず何も、求めようとせず。けれど。
乱を呼び、乱を御し、乱を制して混沌を産む悪魔の中の悪魔。

「正に台風の目の如き御方。乱されるのは周囲のみ。か」

そう呟いて、ふと覗き込んだクズノハの瞳に、また、うっすらと透明な液がかかりだしたことに気付いて。狐の長は続く言葉は胸の中にしまいこんだ。



(台風の目か。ならば、乱の後は、そのまま空に消えていかれるのやもしれぬの)

――― 何の未練も、残さずに。




Ende

←back

魔界top