「意外だったよ」
それは、壊れた後の世界。
ふわり、ふわりと舞い散る花弁の中、
穏やかな春の日差しの下、群れ集う人々がさんざめく。
その様を遥か頭上から見下ろしながら、静かなる世界の創世主は微笑み。
「何が、だね?」
あれは、壊れる前の世界。
クルリ、クルリと回る肘掛け椅子の上、
4月は残酷な季節、と、エリオットの詩を引用した、いつかの傲慢な男は。
あのとき、うっかりと殺しかけた・・・今は何よりも大切な神の笑顔をまぶしそうに見る。
「“花見の時期は、深夜の外出禁止令を解除する”」
ああ、後、“桜の花が咲いている間は、仕事を休みにするように”、とか。
アンタの口から、そんな提案が出るとは思わなかった。と、
そう、面白げに語る、その音の響きすらも
囚われた己には桜花のごとく、匂い立つのだと、被りなれた無表情な仮面の下で男は思う。
「・・・春の使者の到来に喜び、その美に酔い、萌えいづる人の感情まで否定しようとは、思わん」
たとえそれが、“追憶と欲望を混ぜ合わすだけの行為”であったとしても。
照れたように視線を逸らして語る、堅苦しい言い訳に。
くす。
まーた、難しいこと言ってるー。だから禿げるんだよと、かつて人修羅と称された少年は、また笑った。
◇◆◇
シジマ。
自らを身喰いするごとき、おぞましき人の欲を適正に抑えようとする、理想の世界。
その世界を構築した、当初。
では、どこまでが適正な欲なのか、どこからが過ぎた願いなのか。
その難解な命題に直面し。
君なら、どうやって、それを判断し、それを導くかね、と問うた時、
静夜という名を持つ、この神が、あっさりと、答えた言葉を氷川は忘れることができない。
「うーんと、さ。最終的に、自分が幸せになれるかどうか、じゃねーの?」
「・・・幸せ?・・・自分が?」
それでは現世と同じでは、と返す前に提示されたのは、のんびりとした声。
「たとえばさー」
好きな食べ物があるからって、そればっかり食ってたら・・・体壊すだろ?
好きなゲームがあるからって、飯も食わずそればっかりやってたら死ぬだろ?
大好きな人が居るからって、相手の迷惑考えずに自分の欲求ばかり押し付けてたら、ダメだろ?
そんな卑近な。分かり安すぎる、喩えに、氷川の声は止まる。
そう、そんなことをしていれば、いつか。
食べ飽きて、やり飽きて、嫌われて、見るのも疎ましくなり、きっと、いつか不幸に、なる。
いや、既にそう・・・なった。
「俺の親の友人でさ、国際線のパイロットの人が、居てさー」
その人が言うにはさ、ヴィトンなんて、本来はかなり年配の人が持つようなモノだったって。
若すぎて似合わない人が持ってたら、“私は金のもうけ方も使い方も間違っている人間です”って
宣伝してるようなもんだって。だから、恥ずかしい、って言ってた。・・・大分、前だけど。
「・・・金のもうけ方も、使い方も、間違って、いる?」
心のどこかを突き刺されるような、言葉に、思わずと問い返すと、返るのは困ったような瞳。
「・・・あー要は、・・・ほら、“体を売っている人間です”って、思われるんだって、さ」
実際、エンコーとかやってる奴って、結構、持ってた、よな。・・・全然、似合わねーのに。
そんな、冷たい批判に続けて、でも、と落ちる声は、哀しくて、優しい。
「でもさ。そんな風に思われてるって知ってたらさ。ちゃんとそう、誰かが言ってやってたらさ」
自分を安く売ってまで、無駄に、傷、つけてまで、そんなカバン持ちたいって、思ったかな?
「・・・」
「いや、そりゃ当然、モノとしてはすごくイイらしいしさ。丈夫で綺麗で使いやすくて。そーゆー機能性が好きで、分かってて、それが似合ってる人はそれはそれでいーじゃんって、俺も思う」
黙ったままの大人に、言い過ぎたと思ったか、焦ったようなフォロー。
そして、暫しの沈黙を経て、続くのは柔らかな結論。
「だから、さ」
誰かと一緒に食べるから、この食べ物は美味しいのかもしれない。
誰かと一緒に語り合えるから、そのゲームは面白いのかもしれない。
大好きな人の笑顔が見れれば、自分がどんなに苦しくてもそれで、いいのかも、しれない。
「そんなふうにさ、・・・皆が幸せになれたら、それでいいんじゃないかな?」
どっかの偉いセンセーが書いた、脳研究の本に載ってた。
人は、他人との触れ合いが無いと死んでしまう、そんな脳を持つ、哀れな愛しい生き物なのだと。
「・・・」
”愛しい”という言葉が、神の唇から落ちるだけで、トクリと鳴るのは愚かな崇拝者の心臓。
そして、氷の川は溶かされる。優しい神の暖かい、心に。
――― どうか、気付いて。
人は、自分が一番大事。それでいい。それが当然。でも。自分だけじゃ、幸せにはなれない。
そのカバン、素敵だね、似合ってるねって誰かに言ってもらえるから、嬉しいのだと。気付いて。
目の前の欲に惑わされて、本当の自分を、本当の幸せを、見逃したり、しないで。・・・どうか。
「・・・だから、本当に幸せになるためにさ、」
どこで欲を止めればいいのか、を、自分で考えられるように、俺は、したいって、思う。
「・・・では。さしあたっては、正しい情報提供、からだな」
金と権力という名の“神”の、信者とプロパガンダを無くすことから、始めるか。
「だね〜。正しい情報って、欲しいよな。・・・大人の都合で変形されたソレじゃなくてさ」
そう、やはり、チクリと毒を注ぐ、優しい少年の笑顔を見ながら。
前の世界を壊した罪深き男は、己の選択の正しさを、確信したのだ。
◇◆◇
「あれ?でも、アンタは花見に行かないの?今日からは休みだろ?」
政府、警察、医療関連はまるっと休むわけにはいかないから、せっかくローテ組んだのに。
「私は、あまり、あの花は好きではないのでね」
「へ?好きじゃない??・・・桜が?」
(・・・うわぁ。コイツ、変人だ変人だと思ってたけど、ホントに変人だー!
もしかして、アレ・・・? “見ろ!人がゴミのようだ!”とか考えるような、あんなタイプー?)
微妙にポイントをずらしているであろう、大切な少年の思考をどこかで予測しながら。
氷川はだが、それを無理に訂正すること無く、事務的に“正しい情報”で言葉を繋ぐ。
「“秒速5センチメートル”、なのだそうだよ」
「へ?何が?」
「桜の花の」
――― 散る、速さが。
へえ、そうなんだ。アンタって、いろいろ知ってるよなー。ホントに。
え、でも。だから好きじゃないの?そんなことぐらいで?
そう、またしても頓珍漢なことを言いながら微笑むのは。
柔らかに穏やかに鮮やかに咲き誇り、そのしなやかな強さで、万人を魅了しておきながら、
・・・けれど、目を離したその一瞬に
――― 風にさらわれる、花。
「・・・桜が好きではないのは、私だけではないと、思うがね」
その花に、よく似た誰かを、散らさずに留めたいと思う、花守なら、きっと、誰もが。
「・・・ん?何か言った?」
「いいや。それより、明日、だったかね」
「・・・うん。悪い。ちょっと、行ってくる」
「いや、謝る必要は、無い」
「え?」
「今回は、私も同行させてもらおう」
「ええ?!何で、また?!」
「家族に挨拶、は、必要だろう?」
「・・・って、それ」
「私も、自分が幸せになれる、ことを、考えてみたのだが・・・これは」
やはり、“過ぎた望み”、かね、と、問おうとして。
氷川は、己の饒舌な創世神が黙り込み、赤い顔でうつむいてしまったことに、気付いて。
ひとまずは、言葉を止めて、愛する静寂の世界を創り。
待った。
自らの腕に、愛しい神が落ちてくるのを。