「シュラ!!」
今の今まで、普通に話しながら、隣に歩いていたシュラが突然に倒れかかる。
その体を、寸でのところで受け止めたライドウが、何度、名を叫んでも。
彼は、何の反応も示さなかった。
◇◆◇
keinのカイ?と、ソレは怪訝そうに首を捻る。何ソレ?アベルとカインのカイン?
……いきなりスゴイ喩えが来たな、とシュラは苦笑する。
カイン。人類最初の嘘つきにして人殺し。神に愛された弟を妬んで、殺してしまった兄。
許されたのかそれが罰なのか、誰からも”殺されなくなって”しまった、哀れな男の名。
「ううん。keinはドイツ語で、否定の……。後ろにつく名詞を無いものに、する」
へえ、と、面白げなカイの声。“無かった”ことにするんだ。たとえば?
「Ich habe kein Auto. で、僕は自動車を持っていない、とか」
「ああ、I have no car. とか、そんなノリか〜、理解理解〜、でも」
ふうん。ドイツ語で自動車のこと、アウトって言うんだ。
ええと、そういや、アウトバーンって聞いたことあるけど。
「うん。バーンがBahnで、道、のことだから」
「何だ、まんま、“自動車道”かよ!もっとかっこいいイメージだったのに!」
そう、楽しそうに笑うカイにつられて。
「くす。ドイツ語って、日本だと、そういうの多いね」
そのまま言ってるだけ、なのにかっこいい感じ? と、シュラも笑う。
「他にもそんなのあんの?」
「ええっと、そうだな。有名なのでは、フォルクスワーゲンとか……バウムクーヘンとか?」
「そのまま言ってるだけ?」
「だって、Volksが大衆とか人民。Wagen
は小さめの車。Baumは木。Kuchenはケーキ」
「……じゃあ、“一般大衆車”? “木のケーキ”……ホントそのまんまだな!」
ははっ。お前と話してると、面白いよ。……シュラ。
屈託なく、笑うその表情は、透き通って明るい。
「……俺のこと、知ってるんだ。カイ」
「知ってるさ。お前だって、俺のこと、知ってるだろ?」
うん、と、俺は肯く。分かるよ。君は俺と同じモノだ。
「君は……何人目の人修羅?」
「オレは0人目」
「0?」
「無いものにされたから、0人目」
無い、もの。
オレは全ての無を願ったからね。
◇◆◇
“全ての無”
その重すぎる深すぎるコトワリに、俺は一瞬、言葉を失う。
「初めは、ぼっちゃまも、楽しんでたみたいだけど、……全ての無ってことはさ」
「天も地も神も……”悪魔も”存在しないって、ことだよ、ね。カイ」
「そのとおり。だから、封印されたんだよ、ここに」
……ずっと?
もう、時間の感覚も“無い”けどな。
やがて。黙ったままの俺の目の前に。
す、とカイは、握ったままの掌を突き出して、開く。その中には。
――― 何も。
掌にあるものは風にすぎず、
すべては崩壊と欠如なのだから、
こう考えよう
――― 在るものは、実は
非在く、
非在いといわれるものが、実は在る。
おそらくは彼の“理”の言葉、なのだろう。深くて、・・・優しい。
「それは?」
「ルバーイヤートの一節だよ。ペルシアの、虚無と享楽の詩人ハイヤームの詩」
「ペルシア?虚無?・・・ゾロアスター?」
「……うん」
「……なら、どうして、シジマを、選ばなかったの?」
納得がいかなくて、俺は思わずと、尋ねる。
その国は、その言葉は、その神は、あの、あの静かな男の属するモノのはずなのに!
俺の問いに、カイはどこか寂しそうに首を傾げて、笑う。
・・・アーリマンは、いや、氷川は、優しすぎた。と。
「優、しい?」
「虚無の神のくせに、より良い人の世を望むなんて、おかしいと思わないか?」
人は。いや、人だけじゃない、生き物は存在する限り、何かを生んで乱していく、だろ。
「……エントロピー増大則?」
「うん。……コントロールすれば何とかなるってもんじゃない、だろ。矛盾、してる」
ただ、氷川はその矛盾を承知で、世界を延命させようとしていたってのは、俺も分かってる。
黙り込むカイに、どうしても聞いておきたくて、俺は卑怯な問いをする。
「ムスビ、は?」
――― どうして、勇は、選ばなかったの?
「ふん。あの馬鹿!あんなに手伝ってやったのに、あんな理しか選べなかったなんて」
どこか無表情なまま、カイが残酷な評価を下す。
「自分ひとりしか必要ないなら、世界も必要ないだろ?だから、あんな神しか、来なかった」
――― ノア。彷徨う神。箱舟に閉じこもって延々と幸せな自己完結の世界を創り続けるだけの。
心の中の呟きを聞いたように、カイが笑う。ほら、お前だって分かってるくせに、と。
「ヨスガは、どう、だったの?」
その問いには、ほんの少しだけカイが逡巡を見せる。千晶は、悲しいやつだよな、と。
「だから、バアルも悲しい神だ。……所詮、アバターでしか無かったけれど」
でもさ。強さだけが正しいなら、最後に残るのは最も強いただ一人。結局、ムスビと同じ、だろ。
……。
そして残るのは、いつも同じだ。結局どれも同じだ。同じ結末しか産まない。俺達にとっては。
……君は、だから、「無」を、選んだの?
「そうだ」
そう答える、カイの言葉には、揺るぎも無い、迷いも無い。信じたソレがあるだけ。
すい、と、カイが、さっき開いたままの掌を、俺に伸ばす。
「俺を選ばないか、シュラ」
「……君を?」
――― “全ての無”を?