逢魔ガ時 27


しまった、と思う間すらも、無く。

……その甘く強い音は、瞬時に愚かな男を束縛する。

「……ごめん、ね。俺の大好きな、詐欺師」

最後の、最後に、手酷く裏切られた男の、驚愕に見開いた瞳を見つめて。
良かった。やっと、かかった。……ああ、心の瑕も無くなったね。綺麗だ、と悪魔は微笑む。

心底、嬉しそうに。

「……嘘、吐き」
搾り出すように告げる、おそらくは、今、この場で、己の意志として出せる、最後の言の葉。

――― ああ、違う。こんなことを言いたいのでは、ない、のに。……最後まで、僕は。

「……うん。やっぱり、詐欺師より嘘吐きの方が、罪が重かったね」

……だから、俺は地獄に落ちる(・・・・・・・・)

――― そう、言う、貴方の笑顔は、何もかもを諦めたそれ。


「じゃあ、俺の言葉、よく、聞いてね。ライドウ」

――― くん、と、意識が落ちる。

自分の、心が。
嫌です、と。記憶を奪わないで、と、思う意志が薄れていくのが、分かる。

取って代わるのは、自分で慄くほどに強い、従属の願い。

――― ああ、早く、言って、ください。貴方の命令なら、どんなことでも、聞きますから。
だから、早く、その美しい声を、聞かせて。



「……俺がさ」

その望みに応えるように、優しく悪魔は囁く。
俺が、言った、おまじない、覚えてる?」

最強の言霊使いの支配下に落ちた身体は、正直に、こくり、と肯く。

「あれと、そう、だな。うん。他も、ドイツ語の言葉は、覚えていてくれても、いいよ」

あと、ああ、当然だけど。
お前の瑕が癒えたことも覚えておいて、ね。それは深層意識でいいからさ」

だから後は、今日のことと、俺と繋がった”夜”のことは。

全部忘れて。ね。ライドウ」

また、身体はこくりと、素直に肯く。……心の悲鳴を無視して。

シュラ、と。気遣わしげなゴウトの声に、分かっています、と貴方は返す。
幾つか、安全装置が要りますね、と。


「もしも」

暫し黙考した貴方が言葉を落とす。
「もしも、いつか、俺のこと、丸ごと全部忘れたいと思ったら」

願って、ライドウ。
耐えられなくなったら、願って。

俺のこと、忘れたいって。そう、願って。

一瞬でも、心からそう願えば。
全部、忘れられるよ。ライドウ。


「ホントは、そう、してくれると、一番、嬉しい」
お前が心から願えば、多分大した歪みも無く、そう、なれるから。今は、まだ無理みたいだけど。

――― ああ、この勝手に肯く、この身体を、引き裂いてみせれば、貴方に心が届くのだろうか。

「あと、一つだけ。これが、最後だよ。念の為、にね」

――― 何て、慎重で。何て、細心の。
おかしくて、哀しくて、笑ってしまいそうになる。そんなどころでは、無いのに。

……今まで、どれだけ、貴方は、この、コトを。
僕から、貴方の記憶を、奪うことを、何度も何度も考えてきたのだろう。
そんな、悲しいことを、考え続けて……でも、笑って、僕の傍に、腕の、中に、居たの、だろう。

「もし。もしもだけど。俺を捨てることも忘れることもできなくて、また壊れそうになったら」
きっと、そんなこと決して無いと思うけど。

俺があげたペンダント思い出して
あれ、ちょっと秘密が、あるんだ。もし、その秘密が解ければ。

「俺に、会いに来て、くれても、いいよ」
でも、その秘密が解けない内は。

「俺は、絶対に、お前を、受け入れない」

だから、どうか。ここで。この人の地で。
幸せに生きて。ライドウ。


――― そんな、哀しい笑顔で、そんな、無理を、願わないで。
その願いは、翼を引きちぎった鳥に、籠を出て、空を飛べと言うほどに残酷なのだと。
なぜ、分かって、くれない?

「ちゃんと、俺の言うコト、キイテね。ライドウ」
優しく抱き締めて、彼は念を押す。

こくりと、肯く僕に安心したように。また貴方は笑う。

「じゃあ、もう、おやすみ。ライドウ」
起きたときには、全部、忘れているから。

俺は、助っ人に呼ばれて、しばらく魔界に帰る、だけだから。
安心して、帝都で、待ってて。

どうか。
……いい夢を。

こくり、と素直に肯く己を憎み。
どろり、と襲い掛かる睡魔の波を必死で振り払い。
ずるり、と引き出されていく記憶に縋りながら、男の心は己に叫ぶ。


――― 忘れるな。

この優しい悪魔が誰よりも哀しい生き物だということを。
この悲しい悪魔が最悪の嘘吐きだということを。


――― 覚えておけ。

お前はこの悪魔に何をしてやることもできぬのだと。
ただ、この悪魔を傷つけ、悲しませることしかできぬ、無力な存在だと。


お前にはこの悪魔を愛する資格など、かけらも、無いのだ。
もう、二度と、その無力な手で触れるな。その穢れた想いを告げるな。


……それは。あの時、あの赤い部屋で。思い知ったはずなのに。
あの、夜にも。
何度、僕は同じコトを繰り返せば、気が済むのだ。……この悪魔を傷つけて。





――― 貴方が。

天使のために腕を切り捨てた、優しい貴方が。

僕の手を離すために、切り捨てて、しまったのは。

貴方の……。







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