しまった、と思う間すらも、無く。
……その甘く強い音は、瞬時に愚かな男を束縛する。
「……ごめん、ね。俺の大好きな、詐欺師」
最後の、最後に、手酷く裏切られた男の、驚愕に見開いた瞳を見つめて。
良かった。やっと、かかった。……ああ、心の瑕も無くなったね。綺麗だ、と悪魔は微笑む。
心底、嬉しそうに。
「……嘘、吐き」
搾り出すように告げる、おそらくは、今、この場で、己の意志として出せる、最後の言の葉。
――― ああ、違う。こんなことを言いたいのでは、ない、のに。……最後まで、僕は。
「……うん。やっぱり、詐欺師より嘘吐きの方が、罪が重かったね」
……だから、俺は地獄に落ちる。
――― そう、言う、貴方の笑顔は、何もかもを諦めたそれ。
「じゃあ、俺の言葉、よく、聞いてね。ライドウ」
――― くん、と、意識が落ちる。
自分の、心が。
嫌です、と。記憶を奪わないで、と、思う意志が薄れていくのが、分かる。
取って代わるのは、自分で慄くほどに強い、従属の願い。
――― ああ、早く、言って、ください。貴方の命令なら、どんなことでも、聞きますから。
だから、早く、その美しい声を、聞かせて。
「……俺がさ」
その望みに応えるように、優しく悪魔は囁く。
「俺が、言った、おまじない、覚えてる?」
最強の言霊使いの支配下に落ちた身体は、正直に、こくり、と肯く。
「あれと、そう、だな。うん。他も、ドイツ語の言葉は、覚えていてくれても、いいよ」
あと、ああ、当然だけど。
「お前の瑕が癒えたことも覚えておいて、ね。それは深層意識でいいからさ」
だから後は、今日のことと、俺と繋がった”夜”のことは。
「全部忘れて。ね。ライドウ」
また、身体はこくりと、素直に肯く。……心の悲鳴を無視して。
シュラ、と。気遣わしげなゴウトの声に、分かっています、と貴方は返す。
幾つか、安全装置が要りますね、と。
「もしも」
暫し黙考した貴方が言葉を落とす。
「もしも、いつか、俺のこと、丸ごと全部忘れたいと思ったら」
願って、ライドウ。
耐えられなくなったら、願って。
俺のこと、忘れたいって。そう、願って。
一瞬でも、心からそう願えば。
全部、忘れられるよ。ライドウ。
「ホントは、そう、してくれると、一番、嬉しい」
お前が心から願えば、多分大した歪みも無く、そう、なれるから。今は、まだ無理みたいだけど。
――― ああ、この勝手に肯く、この身体を、引き裂いてみせれば、貴方に心が届くのだろうか。
「あと、一つだけ。これが、最後だよ。念の為、にね」
――― 何て、慎重で。何て、細心の。
おかしくて、哀しくて、笑ってしまいそうになる。そんなどころでは、無いのに。
……今まで、どれだけ、貴方は、この、コトを。
僕から、貴方の記憶を、奪うことを、何度も何度も考えてきたのだろう。
そんな、悲しいことを、考え続けて……でも、笑って、僕の傍に、腕の、中に、居たの、だろう。
「もし。もしもだけど。俺を捨てることも忘れることもできなくて、また壊れそうになったら」
きっと、そんなこと決して無いと思うけど。
「俺があげたペンダント思い出して」
あれ、ちょっと秘密が、あるんだ。もし、その秘密が解ければ。
「俺に、会いに来て、くれても、いいよ」
でも、その秘密が解けない内は。
「俺は、絶対に、お前を、受け入れない」
だから、どうか。ここで。この人の地で。
幸せに生きて。ライドウ。
――― そんな、哀しい笑顔で、そんな、無理を、願わないで。
その願いは、翼を引きちぎった鳥に、籠を出て、空を飛べと言うほどに残酷なのだと。
なぜ、分かって、くれない?
「ちゃんと、俺の言うコト、キイテね。ライドウ」
優しく抱き締めて、彼は念を押す。
こくりと、肯く僕に安心したように。また貴方は笑う。
「じゃあ、もう、おやすみ。ライドウ」
起きたときには、全部、忘れているから。
俺は、助っ人に呼ばれて、しばらく魔界に帰る、だけだから。
安心して、帝都で、待ってて。
どうか。
……いい夢を。
こくり、と素直に肯く己を憎み。
どろり、と襲い掛かる睡魔の波を必死で振り払い。
ずるり、と引き出されていく記憶に縋りながら、男の心は己に叫ぶ。
――― 忘れるな。
この優しい悪魔が誰よりも哀しい生き物だということを。
この悲しい悪魔が最悪の嘘吐きだということを。
――― 覚えておけ。
お前はこの悪魔に何をしてやることもできぬのだと。
ただ、この悪魔を傷つけ、悲しませることしかできぬ、無力な存在だと。
お前にはこの悪魔を愛する資格など、かけらも、無いのだ。
もう、二度と、その無力な手で触れるな。その穢れた想いを告げるな。
……それは。あの時、あの赤い部屋で。思い知ったはずなのに。
あの、夜にも。
何度、僕は同じコトを繰り返せば、気が済むのだ。……この悪魔を傷つけて。
――― 貴方が。
天使のために腕を切り捨てた、優しい貴方が。
僕の手を離すために、切り捨てて、しまったのは。
貴方の……。