IRIS 02



弓月の君師範学校の裏手には、小さな森がある。

ドイツは森の国なのです。
そう、どこか懐かしそうに語った銀髪の教師が、空き時間に、よくその森で過ごしていることは、
彼の魅力的な授業のファンになった生徒なら、誰でも、知っていた。


「Herr Schneider!」
自分を呼ぶ、少年の声に、やはり、と思う。
あの後、ずっと、もの問いたげな瞳を押し隠していた生徒。
あの「花の名」は、悲しいものを引き寄せやすい。彼がそうでなければ、良いのですが。


「何デスカ?Herr クズノハ」
「質問があるのですが」

お時間をいただけないでしょうか、と尋ねる真摯な、苦しそうな瞳に、昔の悲しみを思い出す。
どうかこの予感がはずれるようにと思いながら、教師は言葉を返す。

「私ニ答エラレル事ナラ」
「・・・先ほどの授業で、IRISについておっしゃっておられましたが」

やはり、と思いながら、教師は続く言葉を聴く。
「花の名前と、女神の名前以外に、何か意味がありますか?」

「ソウ、デスネ。女神イリスが虹の女神ですので転じて、「 虹 」 トイウ意味モアリマス。」

「虹・・・」
そう、呟く少年の瞳は、熱を帯びる。
何かとても、とても辛い、それでいて恋しい何かを思い出したように。

「・・・っ。他には、特にドイツに関連することで何か」
「Herr クズノハ」
どこか焦ったように話す生徒に、教師が落ち着いた声で呼びかける。

「ナゼ、ソノヨウナ、質問ヲ?」
良ければ、聞かせてもらえませんか?

先に生きる者の静かな青灰色の瞳は、生き急ぐ生徒の黒い瞳を止め。
その優しい深い色は、誰かを思い出させて、少年の勢いを少し殺ぐ。

「・・・以前、お話した、友人が、僕に課題を残して、いったので」
「IRISノ意味ハ何カ?・・ト?」
「はい」

静かに立ち上がった教師が、ゆっくりとその場を往復して歩く。

暫くして。立ち止まり。

「Herr クズノハ」
「はい」

――― IRISは、虹という意味があると、さっき、私は言いましたが。

「デハ、虹トハ、ドノヨウナモノデスカ?」
逆に、質問を投げかける。

「虹、ですか?」
「Ja.」

こういう切返しをされるとは予想していなかった生徒は、驚き、
それでも、ゆっくりと考えながら、答える。

「雨後にかかる、七色の橋」
「・・・他ニハ?」
「人の手の、届かない、もの。・・・すぐに消えてしまう儚い、美しい、もの」

答えながら、ライドウの心はゆっくりと闇のほうへ下る。

I R I S 。イリス、いりす。
あの悪魔の真名は、その本質を何と、的確に表している、ことか。

近づいたと、思っても、近づいていない。掴まえたと思っても、逃げる。僕の手から。いつも。


「物ノ見方ヲ、固定サセテハイケマセンヨ。Herr クズノハ」
生徒の暗い想いを察知したのか、幾分、固い声で教師は注意を与える。

――― 柔軟に。何事も柔軟に捉えてください。
そう。たとえば、先ほど、貴方は虹を、七色の橋、と言いましたが。

「ナゼ、七色ナノデスカ?」
「・・・え?」

生徒は戸惑う。だって、虹は七色だ。そう、習った。
周囲の人間の誰に聞いても、そう言うだろう。虹は、七色だと。
でも、と、考え直す。あの、色の区分など無いはずの橋を見て、なぜ僕は七色と断定を。

その戸惑いをどこか安心した風に見て、教師は笑う。

――― 私の国では、虹は五色、なのです、と。

「国ニヨッテハ、二色ダトスル、豪快ナ所モ、アルソウデスヨ」
「・・・二色、ですか」

本当に、それはまた何とも豪快な、と、やっと年相応の少年らしい表情になった生徒を。
青い目の教師は、微笑んで、見つめた。



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調べたところ、ドイツでは五色、某所では二色、らしいです。
プチ壊れ行く日常。自分の常識が他者の常識では無いのねと。

いや。セカイガヒロガレバ、チガウオワリモミエルヨ、と。誰かが。