IRIS 04





Jede Erscheinung auf Erden ist ein Gleichnis,

地上の全ての現象は、一つの比喩である。

Hermannn Hesse 『Iris』







ガタンガタン。ガタンガタン。

「次は築土町〜、築土町〜。お降りの方は・・・」

依頼を終えた、帰宅の途。
寸暇を惜しんで読解に没頭していた学生は、その案内に溜息を一つついて、荷物をまとめ。

und jedes Gleichnis ist ein offnes Tor, ”そして、全ての比喩は、開かれし門である”)

だが、帳面は閉じることなく学習を続けたまま、やがて停車した電車から、ゆっくりと降りた。

何と熱心な。さすがに弓月の君の、と、周囲が投げる賞賛の視線など、彼には全くと届かない。
学生の頭を占めるものは異国の調べ。・・・先日、学び始めた”IRIS”の内容だった。

durch welches die Seele,wenn sie bereit ist, in das Innere der Welt zu gehen vermag,
”もし魂の準備ができていれば、その門をくぐり、世界の内部へと入ることができる”)

「・・・開かれし門、魂の準備、世界の内部、か」
そう呟いて、難解だ。と、再びライドウは溜息をつく。
さすがに、あの悪魔が残した”最終課題”。一筋縄ではいかない。と。

IRIS(イリス)。日本語に訳せば、アヤメ。
その美しい花の名を冠した作品は、既に読み終えた二作品に比して、おそろしく難度が高かった。
語彙や表現、文法においてもそうであったが、何よりも。

(・・・思想、と言っていいのだろうか。物の捉え方、考え方、受け取り方、何もかもが)

――― 深い。

これがドイツ哲学・・・ヘーゲルやマルクスを生んだ地盤を持つ国の、文学。
わが国の文学が劣る、とは言わないが。明らかに質が違う。

wo du und ich und Tag und Nacht alle eines sind.
”そこでは、君も、僕も、昼も、夜も、全てが一体なのである。”・・・か)

あの時、Schneider先生が難色を示したのも無理は無い、と、学生は3度目の溜息を落とした。



◇◆◇




「独逸語、ニ 関連シテ、ナラ、IRISハ モウ一ツ 意味ガ アリマス。Herr クズノハ」
「・・・それは」

あの日。少し柔軟さを取り戻した生徒に教師は、ある解答を示したのだ。

「恐ラク、デスガ・・・Hesse ノ IRIS」
「ヘッセ?」

Ja.と教師は肯く。
「Hermann Hesse ノ Märchen ト イウ 作品ヲ 彩ル、美シイ 花」

聞いて。
は、と。ライドウは思い出す。
いつか、”人間だったときの彼”の家を訪ねたとき。
彼は、薄い本を持ってはいなかったか。それを読む間、一人にしてくれと、言って。
その後の彼は、それまでの彼とは違っていた・・・そして全てを燃やし尽くして、消去、して。
・・・たしか、あの本の題名は。

「それは、どのような、内容の」
間違いない。ソレだ、と震える手を止めるために生徒の掌が硬く握り締められる。

「・・・Herr クズノハ」
その痛々しげな様子を見て、教師は返す。
――― その話は、今の貴方が知るには早すぎます。

眉を寄せ、話を中断しようとした教師に、どうしても、とライドウは食い下がり。

やがて、教師は諦めたように、深い溜息をつき、少し、時間をください、と、言葉を返したのだ。



◇◆◇




Jede Erscheinung auf Erden ist ein Gleichnis,
「地上の全ての現象は、一つの比喩で、ある・・・か」

象徴的と思えるフレーズを言の葉にして、ライドウは眉を寄せる。

まだ、読解は三割程度しか、進んでいない、のだが。
優秀な、弓月の君師範学校の生徒達をして、それでも、
やはり、難解に、過ぎる、と。

だが、しかし。ライドウが落とす溜息は、暗いものでは無く。

『フ』
「・・・何が、おかしい、ゴウト?」

傍らで、小さな笑い声を落とす黒猫に、怪訝そうに後継が返す。

『いや、楽しそうだな、と思ってな』
「楽し・・・そう?」

言われて、ライドウも気付く・・・確かに、これは、楽しいという感覚かもしれないと。

優秀な彼は優秀すぎる故に、何かを習得する際に苦労らしい苦労をすることは、無かった。
もちろん、それは彼が努力しなかった、ということではない。
ただ、彼は努力することにさえ優秀すぎた、というだけのことだ。
他者の何倍もの努力をしながらも、彼はそれを苦と感じることが無かったのだ。

故に、特に、学問という努力すればある程度の到達を見込める分野では、このように
何かを学び取ることに必死になったことなど、これまで、一度も。

「楽しい・・・か。・・・そう、だな」

そう結論付け、眉を寄せながらも、どこか明るいライドウの靴音に、ゴウトが気付く。

”彼”へと続く、道標となると、思っているから、余計にかもしれないが。
・・・そう。Irisという言葉と作品が内包する、その難解さこそが。優秀な彼の意欲を高め、
その背後にある何かを得ようとする意思を強めていることも、また、確かであったのだ。



やがて、鳴海探偵社にたどりついたライドウたちは、事務所から複数の声が聞こえることに気付く。

『来客か・・・』
「依頼にしては、珍しく、多人数だな」

帰宅の挨拶は後にするか。・・・いや、事前に依頼の情報収集も必要かもしれぬ、と。
そう結論付けて、ノブを回しドアを開いたライドウに投げかけられたのは。


「「「「「「お帰り!ライドウ!!」」」」」」


聞き覚えのある、大量の、少年の声だった。




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ここからはヘルマン・ヘッセの『メルヒェン (新潮文庫) 』のIRIS解説っぽい文が出ます。
ホント難解なんです・・・。でも一生読める本ですよ。お勧め。