IRIS 05



築土町 銀楼閣 鳴海探偵社

「だからさ、そういう意味の受け取り方は、固定的だと思うんだが」
「いや、だが、文法的にも齟齬は無いぞ。型を外れすぎた読み方もまた問題だと」

明日の授業で発表する内容の相談に来たらしいよ、と快く場を提供した鳴海の前で、
互いの説を戦わせる級友達を見ながら、もう幾度目か分からぬ溜息をついてライドウは思う。

・・・学んだ部分までの”筋”そのものは、簡単なのだが。と。

In Frühling seiner Kindheit lief Anselm durch den Grünen Garten.
幼い頃の春に、アンゼルムは緑の庭を走っていた。)

この一文で始まる『IRIS』の主人公は、その、アンゼルムという男。
要は、主人公アンゼルムの成長を綴った話。
彼は幼い頃に、母が丹精こめた美しい庭で遊び、咲く花に、飛び交う虫に、心惹かれ。
何よりもアヤメを愛し、その中に”神”と”真実”と”永遠”を、見て、至上の幸福感に浸る。
けれど、成長と共に、アンゼルムの興味は移る。・・・より、現実的な何かに。

(・・・当たり前だ。人は、いつまでも子供では居られないのだから。
いつかは、夢を捨て、現実を見据えて、色あせた日々を送るしか、無いのだ。・・・誰しもが)
そう感想を持ちながら、ライドウの胸はツキンと痛む。
その痛みの原因は分かるようで、分からない。

やがて、アンゼルムは学問の道を目指し、学者となり教授となる。
そんな、言ってみれば、自分たち、弓月の君師範学校の生徒が目指すべき、将来の理想、
のような、地位と境遇を得ながら、しかし、彼は幸福ではない(・・・・・・)

奇妙に満たされぬまま、遠くへと過ぎ去った幸福(・・・・・・・・・・・)を追い求めて。生きている。


――― 自分でもそうとは、知らぬうちに。



◇◆◇




暫しの後、平行線を辿る意見を見かねたか。
「どの意見も一理あると、思うが」と、まとめ役の生徒から
ライドウはどう思う?と、尋ねられて、寡黙に場を静観していた少年は口を開く。

「・・・僕が気になっているのは、“全ての現象は比喩”という、部分だが」
ああ、それは俺も気になってた。うむ。深い、象徴的な言葉だな。と、多くが同意する中、
ライドウは続ける。

「たとえば、題名であるIrisですら、最初はSchwertlilieとしか、表現していない。
・・・そして、その名、Irisが初めて出るのは、僕の把握する限りは、この段落からだ」
Aber einmal kam ein Frühling、の、と説明されて、周囲も納得する。

「なるほど、つまりアンゼルムが成長して、彼の世界が変わった時点からか」
「そういえば、そうだな。日本語ではアヤメとしか訳せないが、独逸語では全く違う語だ」
「ああ、それにこれ、考えれば冒頭と対称に思えるな。同じFrühling(春)だ」

級友の意見に、ライドウは軽く肯いて、みせる。

主人公が何かを失った時点から、その言葉を使うことから考えて・・・。
「・・・つまり、作者にとってはこのIrisという語そのものが、何かの“比喩”なのでは無いかと」

そして、それが何の“比喩”であるかは、恐らくは。この文章の奥深さから考えると。

「最後までこの作品を読まないと、分からない」
だから、むしろ今は文法的な解釈に捕らわれすぎずに、進めるほうがいいと、思う。

そう、持論を展開したライドウに、級友達の感嘆の声がかけられる。

「さっすが、ライドウ!俺、そんな考え方してなかったよ」
「よく読みこんでるよな〜。うんうん、すっごく納得した。結論は急ぐべきじゃないな」
「はぁ・・・しっかし、Irisって、難解だよなー!」
「うむ。複雑に絡み合った蔓の中に、真実が隠されている、といった感じだ」

でも、この難しさが、面白いよな!!一級の謎解きみたいで、やりがいある!!
と、目を輝かせる少年たちを、人生の先達である鳴海とゴウトは目を細めて、見やった。



◇◆◇


「・・・内緒って言われたんだけどさ」
わざわざすまなかった、と、銀楼閣の玄関まで送るライドウに、級友達が申し訳なさそうに話す。

鳴海さんって、すごくいい人だな!と、熱く語る彼らに、話す暇など無かったはずだが?、と。
怪訝そうに首を傾げた、彼に。

「ライドウが帰ってくる前にさ、少しだけ、話したんだ」
「で・・・、いや、もっと怖そうな人、かと思ってたんだけど」
「ほらライドウが、学校もなかなか来れないぐらい、だから・・・とか、つい先入観で。でも」
「これからもウチのライドウのこと、よろしくなって、すごく優しい笑顔で、さ」

すごく大事に思われてるみたいだよな、と言われて、微かにライドウの頬が染まる。
じゃあ、また明日、と手を振る級友達の背中が見えなくなるまで、その赤みは消えなかった。




「・・・内緒って言われたんだけどさ」
迷惑をおかけしました、と、礼と詫びを言うライドウに、先の級友と同じ言葉を、鳴海が言う。

ライドウって、いい友達たくさん持ってるよなー。俺、安心したよ、と嬉しそうに呟く所長に、
そういった会話はあまり無かったはずだと、きょとん、とした目で、首をひねった、彼に。

「・・・ホントはさ。あの子達、俺に”依頼”しに来たんだよ」
「お前をもっと学校に来させてやってくれって」
「依頼料が必要なら、俺たちで何とかしますからって」
「お金でどうこうできないことなら、俺たちも手伝いますからって」

お前、すごく皆から慕われてるんだな、と、所長に言われて。
驚いたようなライドウの、先ほどの頬よりも上の部分が赤く染まり、(ほと)びりかけるのを、見て。

(これが、お前の言っていたことか、シュラ)と。

共犯者の黒猫は、思った。




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幸せになってほしい、という気持ちは同じなのですよ。