IRIS 07



「お前は、お前の世界で、お前の大切な人たちと、幸せに生きろ」

待って!



「俺の代わりに、人として、幸せになって。ライドウ」

待って、ください!!



「じゃあな」

行かないで!



「元気で」








「待っ・・・!シュ・・・」

目覚めた男の視界に入るのは、己の手。
つかむものなど何も無い虚空に、伸ばされた、腕。

「・・・」

無言のまま、拳を握り締め、その自分の一部分を下ろす。
無力な手が、いつも届かぬ夢の名残は、喘ぐ息。音を打つ心臓。
・・・全力疾走した後ですら、ここまでひどくはなかろうと思うほどに。

そして

癒えぬ傷が、じゅくじゅくと、その膿をまるで全身に回らせるかのように。
時に鈍く、時に鋭く、この身も心も苛む・・・

「・・・っ」

自分でも愚かだと思うほどに。何度も、何度も見る、あの日のあの時の。消えない痛み。


どうして、あの時、言えなかった。
待ってくれと行かないでと置いて行くなと連れて行ってくれと好きだと愛しいと愛していると。

――― こんなに後から、悔やむぐらいなら。

でも。
何度も言おうと、告げようと、そう、するたびに、この喉は、それを拒んだ。
初めは、あの悪魔がそうしたのかと、思った。ボルテクスでは、そう、だった、から。

だが、やがて気付いた。
想いを告げることも、あの美しい肌に触れることも、いっそこの無為な命を散らすことも。
何一つ許さぬのは、己自身の意思、だと。

(平気な振りをしろ、幸福な振りをしろ、これ以上、アレの苦しみを増やすな)
・・・あれのくるしみ?ぼくが?

(そうだ。お前が、アレの苦しみの元凶。もう二度と、アレを傷つけるな。たとえそれでお前が)
・・・そう、それでぼくのきが、くるってしまったとしても。・・・ただ。

ただ、貴方の笑顔が欲しかった。

もう、最後の頃は。ホッとしたような、どこか哀しい安堵の微笑しか見られなかったけれど。
それでも、愚かな僕は嬉しかった。その微笑だけでも守りたかった。それだけで満足できた。
自分にはそれ以上、他には彼に何もしてやれないことをどこかで、思い知っていたかのように。

嘘でも欺瞞でも偽りでも。それでも
彼が居る間は耐えられた。

けれど。
――― 彼が居なくなって、からは。

更に強く拳を握り締める。爪が己の肌を裂こうと肉に沈もうと、知ったことか。
そんな痛みなど、もはや、この身は感じることも。

「・・・大丈夫」
ゴウトが居ないことを、再度確かめて、自分に言い聞かせる。声にして。

「まだ」
大丈夫。

「大丈夫だ」
だって、貴方が、言ったのだ。

「思い出して、と、言って、くれた」
俺に、会いに来て、くれても、いいよ、と。

「だから大丈夫。まだ、僕は、」
壊れない。けして。

「きっと、たどりついて、みせる」
だって。この苦しみは貴方へと続く愛しい道程。僕のマガツヒが満つる経絡。

「必ず、」
貴方の秘密を、解いて。

「必ず、会いに、行きます。・・・シュラ」

それまでは、けして。

――― 壊れたり、しない。




◇◆◇



「そういえば、葛葉は意中のメッチェンとか居ないのか?」
「あははーライドウ自体がシャンすぎるもんなぁ!お眼鏡にかなうメッチェンなんか、なかなか」

授業前のひととき。
嬉しそうに話しかける級友に、困ったような笑みを浮かべ、ライドウは沈黙を答えとする。

・・・メッチェン、シャン、巷で知らぬものの無い、今、流行の言葉。
ませた子どもですら使う、そのドイツ語由来の言葉については、彼に聞いてみたことがあった。
彼が、まだ帝都に居た頃に。

「へ?“めっちぇん”?めっちーじゃなくて?」
「めっちー?・・・それは何ですか?」
「い、いや。ごめん、それはちょっと俺の勘違い・・・けど、めっちぇん・・・どこかで」

ああ、と、思い出したように、
Mädchen の ことだね。あとシャンが schön のことだって、大叔父が。
そういや、俺もこっちで誰かが使ってるの聞いた気がする。なんつーの、大正時代の流行語大賞?

そう言って、笑って。

Mädchenは、そうだな、“お嬢さん”って感じかな。で、schön は“美しい”という形容詞。
確か、我が愛しのメッチェン、とか。あの女優はとてもシャンだ、とかそんな使い方?
そのとおりです、と肯くと、やっぱりそうなんだ、と、嬉しそうに、笑って。


その、微かな痛みを伴う記憶をもたらす、二つの語が。
ライドウの教室で何度も生徒達の会話に登場していたのには、理由が、あった。



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大正時代にもっとも人気があった外国語がドイツ語であったためか。
メッチェン、シャンは、学生を中心に一般人にまで流行ったそうです。

で。めっちーは・・・す、すいません。ソウルハッカーズに出てくるあれです。