IRIS 08



「なあなあ、ついに出てきたな、イリスさん」
「俺も、ちょっとそんな気がしてたんだ。こういう展開にならないかなって!」
「うんうん!イリスさん、かぁ。ちょっと不思議な雰囲気があるところが・・・いいなー」

ゆくゆくはこの国を背負って立つ者に、と嘱望されているとは言え、如何せん“少年”達。
Irisが、どうやら、主人公アンゼルムが心惹かれる“女性”の、その名であると、話の筋が進んだ
途端、今までとは異なる色を持って、より熱意を持って読解を進めるようになった。・・・現金にも。

イリス。友人の妹。花を、歌を本を愛し、繊細で上品で風変わりで、少し体の弱い、美しい女性。
喧騒を嫌い、世間の付き合いを望まず、ひっそりと自分の領域で咲くことを望む、傷つきやすい花。

アンゼルムは、現在の自分の立場から考えれば、彼女は妻には相応しくないと考えるのだが。
それでも諦めることができないままに、彼女への想いを抱えて懊悩する男の姿は、彼と同じように美しい恋と、 現実の欲に引き裂かれることの多い少年達を、否応も無く、ひきつけた。


そして、また、ライドウも。

Oft glaubte Anselm, daß sie ihn lieb habe, oft schien ihm,sie habe niemanden lieb, sei nur mit allen zart und freundlich, und begehre von der Welt nichts, als in Ruhe gelassen zu werden.

(アンゼルムはしばしば、彼女が自分を愛してくれていると確信した。だが、その一方で、彼女は誰にでも優しく親切なだけで、本当は誰も愛してはいない、彼女が世界に望むのはただ、自分をそっとしておいてほしいだけなのだと、何度も何度も、思った)


その。いつかどこかで出会ったような、感情の波を。
自らの古傷を抉り取られるような、過去の痛みを何度も、何度も、この男に重ね合わせ。


Schon dein Name tut mir wohl, Iris ist ein wundervoller Name, ich weiß gar nicht, woran er mich erinnert.
(イリスというのは素晴らしい名前です。その名が僕に何かを思い出させるのに、僕にはそれが何か分からない)


Irisという名前が、己に何か深遠な大切な記憶と呼び覚ますのだと、けれど、それが何なのか、
分からないと途方にくれる、主人公に、今の自分を、投影し。


Lieber Anselm, ich glaube, daß wir zu diesem Sinn auf Erden sind, zu diesem Nachsinnen und Suchen und Horchen auf verlorene ferne Töne, und hinter ihnen liegt unsere wahre Heimat.

(アンゼルムさん。私は思うの。私達は失った過去の遠い響きを、こう、そっと息をひそめて探して、耳を傾けるためにこの世にあるのだと。 そしてこの響きの奥に、私達の本当の故郷があるのよ)

Wie schön du das sagst.(なんと美しい言い方をされることか)


その、抽象的なイリスの言葉にアンゼルムが返した世辞を、ライドウもまた覚えた。



(俺の代わりに、人として、幸せになって。ライドウ)

「・・・Wie schön du das sagst.」(・・・なんと、美しい言い方を)

僕の、残酷な、イリス・・・と。



◇◆◇




“Iris,“ sagte er zu ihr, “ich mag so nicht weiter leben.
「イリスさん。僕は、もう、このまま日々を過ごしていくことは、できません」

美しい涼やかな少年の声に、教室内はうっとりと聞き惚れる。

読解発表の分担は、自主性を重視するシュナイダー教諭の指示の元、原則は生徒達の話し合いによって決められていたのだが、 今、ライドウが発表しているその部分は、何があっても絶対に葛葉君にお願いしたい!と、ライドウを除く満場一致で決まったものだった。

普段なら、優秀なライドウには文法的、または解釈的に難しい部分を割り振られることが多かったのだが、この、読解上重要とはいえ、さほど難解でもないこの部分がそうなったのは。

Du bist immer meine gute Freundin gewesen,ich muß dir alles sagen.
「貴女はずっと僕の良い友人であられました。けれど僕は貴女に全てを言わずにはいられません」

・・・アンゼルムがイリスに求婚する場面であったからで、あった。



Ich muß eine Frau haben, sonst fühle ich mein Leben leer und ohne Sinn.
「僕は妻を持たねばなりません。そうしなければ、自分の毎日が空虚に無意味に思えるのです」

Und wen sollte ich mir zur Frau wünschen, als dich, du liebe Blume?
「そして、貴女という愛しい花以外の、誰を、妻に望めばいいというのでしょう」

(うああ、やっぱりライドウにしてもらって、良かったー)
(いい声だな〜。この声で求婚されて、肯かない女なんてこの世に居ないって)
(俺、幸せ・・・。いっそ、俺が妻になりたい・・・)

今や、皆の心のアイドルとなった美しい少年が言の葉にする“求婚”に悶絶する級友に気付かず。

ライドウは、心のうちに嗤う。
・・・何という、皮肉な、と。
僕は、自分の気持ちを伝えることすら、できなかったのに。・・・僕のイリスに。


Willst du, Iris?
「妻になっていただけますか。イリスさん」

Du sollst Blumen habe, so viele nur zu finden sind, den schönsten Garten sollst du haben.
「僕に見つけられるだけのたくさんの花を、この上なく美しい庭を貴女にさしあげましょう」

Magst du zu mir kommen?
「僕のところに、来てくださいますか?」



「・・・Sehr gut ! Herr Kuzunoha ! 」

(たいへんよろしい。葛葉君)



その声にハッと我に返った、もう忘我の域で、聞き惚れていた生徒達を困ったような目で見渡し。
続きは次回に。では、出てきた語句と文法の確認をと、淡々と授業を進める教師を見ながら。

ライドウはどこかで、悲しい確信をした。

この“求婚”が、イリスに受け入れられることは、けして無いのだと。





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