IRIS 09



「所長は、」
いきなりに、疑問が続きそうな抑揚で呼びかけられて、鳴海は調査報告書から顔を上げる。

「ん?何、ライドウ?」
「・・・いえ。何でもありま」
「何でもないってことは、無いだろ?」

なになにー?俺に答えられそうなことなら、答えるよ〜?
滅多に先方からは話しかけてこない薄情な助手に呼ばれて、嬉しがっていたのんきな上司は。
では、と、意を決したように尋ねてきた、その内容に、思わず、のけぞった。

「所長は、求婚を断られたことは、ありますか?」



◇◆◇



ココカラハ。
どこか思いつめたような、珍しく硬い表情で教師は語る。

――― ここからは、少し授業の進め方を変えます。私が原文を音読しますので、皆さんはそれを、聞き取って、頭の中で意味を紡いでみて、ください。

そんな無茶な、と。
こくり、と生徒の数人が、止まった息を飲み下す音が聞こえてきた気がする。
妙だ、と、ライドウも思う。確かにその方法でリスニング力と集中は格段に上がるかもしれない。
だが、いきなり授業の難度をそこまで上げるとは、この思慮深い優れた教師らしく、ないと。

「せ、先生。聞き取った内容を帳面に書いても、構いませんか」
「Nein. “音声”ダケノ情報トシテ処理シテクダサイ」
ですので、これから私の授業では、帳面も筆記用具も机に出さないように。

ザワ、と不安げに、戸惑う生徒達を気の毒に思ったか。
難しい部分の訳は私がしますので、その点は気楽にしてくれていいですよ、と、
ようやくいつもの笑顔でその異国の教師は優しい声で、念を押してくれたのだが。



「・・・それで、続く内容が、主人公がふられる場面、だったと」
「はい」
「ほんでもって、断った女性の真意が分からないと」
「・・・はい」

(いきなり、何を言い出すかと思ったよ〜。あー心臓に悪い)
先ほどの爆弾発言の事情をやっと理解して、鳴海がはあ、と溜息をつく。

「で、何と言って、断ったんだ。その、えーと、イリスさん?」
「・・・花は、いらないと」

突然の求婚に、顔を赤らめることすらせず、イリスは言ったのだ。

私は貴方のことが好きです。アンゼルムさん。でも。だからこそ。妻にはなれません。
花をくださるとおっしゃった貴方はとても、優しい方ですわ。でも私は花が無くても生きていけます。
私は、たったひとつの大切なものさえあれば、何もいりません。それは自分の中に響く音楽です。
だから、生涯の伴侶に望むものは互いの音楽が美しく響きあう、その一点のみだけなのです。

「つまり、名誉と成功を望むアンゼルムには、そんなこと耐えられないだろう・・・って?」
(まあ、静かで穏やかな生活を望む女性、だもんなぁ。そりゃあそうだろうなぁ)

「はい。“貴方にとってくだらないものが、私にとっては大切で、貴方にとって大切なものが、
私にしてみれば、そんなもののために人が生きる価値は無いと思っているのです”、と」

(言うねぇ)
鳴海は心の中で舌をまく。タエちゃんあたりが大喜びで引用しそうだな、と。

そして。

Ich werde nicht mehr anders werden, Anselm.
「私はもう、別のものに変わることはありません。アンゼルムさん」

denn ich lebe nach einem Gesetz, das in mir ist.
「私は、私の中に在る法則によって、生きているのですから」

そう、イリスに言われて、アンゼルムは返す言葉を失ってしまうのだと聞いて、鳴海も納得する。

「それは・・・驚いただろうなぁ、アンゼルム」
内気で病弱な女性が、内面ではそんなに強い“自分”を持っているなんて、思わないからなぁ。

こくり、と肯くライドウを見ながら、
(・・・いや、そう、思いたくない、だけなんだけどな。だって、男は、本当は女より弱いからな)
と、鳴海は心の中で、こっそりと、そう、付け加えた。





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