「そろそろ、来ると思っていたよ。“シュラの猛犬”」
身の内にあふれる魔力を制御しきれず、彼の最愛の主が正気を失い、拘束されてから3日後。
狂いの内に、もがき苦しみ、呻く心の悲鳴に耐えられず。
主がルイと呼ぶ、地獄の神の部屋を訪ったクー・フーリンが目にしたのは、一台の天秤。
金の台の上で、ゆらりゆらりと揺れるそれは、ガラスででもできているのだろうか。
透き通って、とても、美しい。
右の受け皿に、透明な水晶の、左のそれに黒水晶の。
小さな山を為す、無数の玉の分銅を測って、それは揺れる。ゆらりゆらりと。
――― 何と、見事な。
思わず、見惚れた幻魔の眉庇に、キラリと色が訪れる。
美しくカットをほどこされたガラスの芸術品は、光を反射して虹の輝きを作り出し、揺れるたびに、
様々な色の波を、部屋の壁につくる。ゆらり、ゆうらりと。
「・・・これ、は?」
「美しいだろう?」
微笑みながら、ルイは左手に持っていた黒い水晶の玉をひとつ、天秤皿に、コトリと落とす。
――― あ!
金の台座の上。針一本でその身を支えるガラスの天秤は、一瞬、その重みにグラリと大きく傾き、
落ちて、砕け散るかと、見ているものの、心の臓を冷やし。
けれど。
ゆら、と、再びバランスを取り戻して、また、それは揺れる。ゆらりゆらりと。
虹の光を、きらめかしながら。
「ふふ。・・・焦ったかい?」
「・・・」
答えぬ犬の、心のうちを見透かしたように、ルイは嗤う。
気付くと、悪魔の王の右手が握るのは、複数の白い水晶の分銅。・・・左手には黒の。
コトリとバランスを戻すかのように、彼は右から一つ、光を落とす。
「まったく困ったものだ。壊れやすく遷ろいやすいものほど、美しいとは」
男と女、人と悪魔、光と闇、愛と憎しみ、秩序と混沌に、揺れて揺らされて。
また、コトリと。せっかく取り戻したバランスを乱すかのように、彼は左から一つ、闇を落とす。
「それも、揺れるほどに、美しい光を放つのだから、始末に終えない」
だから誰しもが、アレを揺らしたくなるのだよ。己でも、そうとは気付かない、ままに。
落とされた闇に、ガクリと大きく揺らいだ天秤を、哀しげな瞳で一瞬見つめて。
「だが、揺らしすぎて・・・バランスを失えば」
闇の王は、残酷に左手を開く。ザラザラと落ちる黒い玉に、天秤は耐えられず。
――― ああ。
カシャ・・・ン、と、その音すら、美しく床に落ちたそれは。
「・・・!」
透明な無数の瑕から、赤い血を、流す。
その赤を見惚れたように見つめ、ほう、と感嘆の溜息をルイは落とす。
「これは、これで、綺麗なのだけれどね」
でも、失った究極の美はもう二度と戻らない。・・・アレは生きて揺れてこそ美しいのだから。
揺らす自分ではなく、揺らされるそれこそが、真の支配者であり勝利者なのだとも気付かず。
目先の欲だけに囚われて、揺らしすぎて砕いてしまうなど、愚昧な子どものすることだ。
「そうは思わないか」
「・・・」
じっと、痛々しげな瞳を、赤い血を流すガラスの破片に落とす幻魔は、何も答えない。
やがて、ゆっくりとルイは問いかける。北の地に生まれた、半人半神の男に。
「壊したくないと、思わないか」
私達の、儚くも美しい、アストライアー※を。
そして暫しの沈黙の後、光の神の息子にして、邪眼の魔王バロールの曾孫は、固い声で答えた。
「・・・私に、何をせよと」