Balance 16



「う・・・ん?」
目覚めた悪魔の視界に入るのは、見慣れた天井。
ああ、俺の部屋かと、回らぬ頭をゆっくりと巡らして、そして。
肌触りの良い夜着と寝具にくるまれた自分の体を、うそりと、眺めて。

「・・・」
シュラは己の内の変化を知覚する。

「壊れなかった、か」
あれほど、崩れかけていた器が修復している。黒と白のバランスを取り戻して。

「・・・ふ」
口元に浮かぶのは自嘲の笑い。

あれほど、アイツ(・・・)に力をやって。
あれほど、ルイに“おしおき”をくらって。
もう、ダメだろうって。自分でも、思ったのに。

――― 今度こそ、壊れることが、できるって、思ったのに。

嗤いながら、手のひらを天井に伸ばす。
見慣れた黒い紋様と、緑色に輝くラインを持つそれを開いて、握って、また開いて。
やがてパサリと、その手で顔を覆う。

「・・・う、して」
どうして、皆、俺を放っておいて、くれない。
どうして、俺を揺らそうと、埋めようと、する。

いくらそう、したところで、所詮、俺は空っぽなのに。
空虚な。ただ、他者から揺らされるだけの、天秤でしか、無いのに。

「どう、して」

もう、俺なんか、居なくなってしまえば、いいのに。
――― アイツ(・・・)と二度と会えない、俺、なんか。

とろり、どろりと。想いの海に沈み、溺れ、墜ちていく心。
けれど、すぐ近くに何かの気配を感じて、シュラはその無為な思考活動を停止した。



「リン」
居るんだろ、そこに、と主の声を受けて、部屋の外で扉を守る番犬は、はいと答える。

「お前が運んでくれたのか?・・・着替えさせたのも?」
他の誰にその役割を渡すとお思いですかと、思いつつ、またクー・フーリンは、はい、と答える。

「そっか。ありがと」
いえ、と答える犬の声の堅さは、主の眉根をかすかに歪ませる。

「リン」
「はい」

話したいことが、あるから、こっちに来い。と。
その命令を待っていたように即座に。けれどやはり、堅い声ではい、と応じた犬は、扉を開き、部屋の内へと進み、寝台の端に腰掛ける主の足元へひざまずく。

「リン」
「はい」
「昨日の、こと、だけど」

ビクリと、その言葉を受け取った途端に、犬は震える。
震えて、動く。
昨晩から、ずっと、考えてきた行動を、為すために。

「・・・何のつもり?」
怪訝そうに尋ねるシュラの視線の先には、下僕が両手で水平に掲げて差し出したゲイ・ボルグ。

「お受け取りに、なって、ください」
「・・・ふうん、つまり」

コレでお前を殺せって?リン。
静かに冷たい声でそう言った主に、クー・フーリンは御意、と答えた。




◇◆◇




罰には相応する罪が、あるよね。無ければ冤罪だ。
そう、感情の見せぬ声で語る主の足元には、断罪の言葉に怯える白い犬。

「お前の、罪状は?」
「・・・貴方を汚しました」

ルシファーの誘いなど、貴方を失いたくないなど、言い訳だ。
私は、ただ、貴方に触れ、貴方を啼かせ、貴方を自分のものに、したかった。
あわよくば、私にお心を向けてもらえないかと、どこかで卑小な計算までして。

だから、罰を受けた。心臓を握りつぶされるような、罰を。
その上、その罰に耐え切れず、貴方を害そうとまで、した。
結局は、できるはずも、なかったのだ、けれど。

「俺を汚したから、俺に、殺されたいの?」
「叶うことなら・・・ですが」

分不相応な願いだと、言われても仕方が無い。
・・・いや、むしろ。私は、この方の心に瑕を、つける、ことで、優しいこの方の心に永遠に住めることを望んでいるのだ。
あの、ウリエルと同じように。

「・・・」
無言で、くい、とゲイ・ボルグを掴む感触が両手に響く。そのまま逆らわず、愛槍を主の手へと引渡し、クー・フーリンは目を閉じたまま顔を上げる。

首にヒタリと当てられる馴染み深い刃の冷たさが、至上の喜びを予感させ、かすかに微笑みすら浮かべる白い幻魔の耳に届くのは、どこかで聴いた残酷な意味を持つ音。

――― つまり、もう、俺は、いらないってこと?・・・リン。

「!」
その悲しい哀しい響きに、思わず目を開いた犬の目の前には、天も地も惑わせる金の瞳。

「俺を、置いていく?」
お前も?

「それで」
お前が楽になれるの、なら。いい。けれど、でも。

一旦、言葉を止め、逡巡し、そして。主はこれまで一度もこの下僕に使わなかった言霊の力を使う。

「本当の願いを、言って、リン」

本当は、どう、したいんだ?お前




next→

←back

魔界top