「う・・・ん?」
目覚めた悪魔の視界に入るのは、見慣れた天井。
ああ、俺の部屋かと、回らぬ頭をゆっくりと巡らして、そして。
肌触りの良い夜着と寝具にくるまれた自分の体を、うそりと、眺めて。
「・・・」
シュラは己の内の変化を知覚する。
「壊れなかった、か」
あれほど、崩れかけていた器が修復している。黒と白のバランスを取り戻して。
「・・・ふ」
口元に浮かぶのは自嘲の笑い。
あれほど、アイツに力をやって。
あれほど、ルイに“おしおき”をくらって。
もう、ダメだろうって。自分でも、思ったのに。
――― 今度こそ、壊れることが、できるって、思ったのに。
嗤いながら、手のひらを天井に伸ばす。
見慣れた黒い紋様と、緑色に輝くラインを持つそれを開いて、握って、また開いて。
やがてパサリと、その手で顔を覆う。
「・・・う、して」
どうして、皆、俺を放っておいて、くれない。
どうして、俺を揺らそうと、埋めようと、する。
いくらそう、したところで、所詮、俺は空っぽなのに。
空虚な。ただ、他者から揺らされるだけの、天秤でしか、無いのに。
「どう、して」
もう、俺なんか、居なくなってしまえば、いいのに。
――― アイツと二度と会えない、俺、なんか。
とろり、どろりと。想いの海に沈み、溺れ、墜ちていく心。
けれど、すぐ近くに何かの気配を感じて、シュラはその無為な思考活動を停止した。
「リン」
居るんだろ、そこに、と主の声を受けて、部屋の外で扉を守る番犬は、はいと答える。
「お前が運んでくれたのか?・・・着替えさせたのも?」
他の誰にその役割を渡すとお思いですかと、思いつつ、またクー・フーリンは、はい、と答える。
「そっか。ありがと」
いえ、と答える犬の声の堅さは、主の眉根をかすかに歪ませる。
「リン」
「はい」
話したいことが、あるから、こっちに来い。と。
その命令を待っていたように即座に。けれどやはり、堅い声ではい、と応じた犬は、扉を開き、部屋の内へと進み、寝台の端に腰掛ける主の足元へひざまずく。
「リン」
「はい」
「昨日の、こと、だけど」
ビクリと、その言葉を受け取った途端に、犬は震える。
震えて、動く。
昨晩から、ずっと、考えてきた行動を、為すために。
「・・・何のつもり?」
怪訝そうに尋ねるシュラの視線の先には、下僕が両手で水平に掲げて差し出したゲイ・ボルグ。
「お受け取りに、なって、ください」
「・・・ふうん、つまり」
コレでお前を殺せって?リン。
静かに冷たい声でそう言った主に、クー・フーリンは御意、と答えた。
◇◆◇
罰には相応する罪が、あるよね。無ければ冤罪だ。
そう、感情の見せぬ声で語る主の足元には、断罪の言葉に怯える白い犬。
「お前の、罪状は?」
「・・・貴方を汚しました」
ルシファーの誘いなど、貴方を失いたくないなど、言い訳だ。
私は、ただ、貴方に触れ、貴方を啼かせ、貴方を自分のものに、したかった。
あわよくば、私にお心を向けてもらえないかと、どこかで卑小な計算までして。
だから、罰を受けた。心臓を握りつぶされるような、罰を。
その上、その罰に耐え切れず、貴方を害そうとまで、した。
結局は、できるはずも、なかったのだ、けれど。
「俺を汚したから、俺に、殺されたいの?」
「叶うことなら・・・ですが」
分不相応な願いだと、言われても仕方が無い。
・・・いや、むしろ。私は、この方の心に瑕を、つける、ことで、優しいこの方の心に永遠に住めることを望んでいるのだ。
あの、ウリエルと同じように。
「・・・」
無言で、くい、とゲイ・ボルグを掴む感触が両手に響く。そのまま逆らわず、愛槍を主の手へと引渡し、クー・フーリンは目を閉じたまま顔を上げる。
首にヒタリと当てられる馴染み深い刃の冷たさが、至上の喜びを予感させ、かすかに微笑みすら浮かべる白い幻魔の耳に届くのは、どこかで聴いた残酷な意味を持つ音。
――― つまり、もう、俺は、いらないってこと?・・・リン。
「!」
その悲しい哀しい響きに、思わず目を開いた犬の目の前には、天も地も惑わせる金の瞳。
「俺を、置いていく?」
お前も?
「それで」
お前が楽になれるの、なら。いい。けれど、でも。
一旦、言葉を止め、逡巡し、そして。主はこれまで一度もこの下僕に使わなかった言霊の力を使う。
「本当の願いを、言って、リン」
本当は、どう、したいんだ?お前