Iris Garten 07




その、領域に入った瞬間、クズノハが感じたのは「夜」

――― いや、正確には、夜の「入り口」か。

一歩先に踏み出せば、甘い漆黒に包まれるであろう、境の地。
蒼穹(そうきゅう)を、黄金(こがね)() が引き裂いた、その後にやってくる、碧い、蒼い、藍の国。

その深い青の世界に、悲しそうにうつむくシュラが。その衣装ごと夜に染まっていくように見え。
青い花の群れに融けてしまいそうな主人の姿に、ゾクリと恐怖を感じ、急いで駆け寄ろうとする
クズノハの視界に入ったのは。

シュラを取り巻く、不思議な形をした たくさんの同じ・・・花?
丸い、小さな・・・青い千代紙で作った 紙風船のような、形の。
(・・・花、じゃなく、蕾?・・・何の?)

いつか、どこかで見たような、と。
記憶を掘り起こし始めた子狐に、あ、起きたんだ、クズノハ、と、優しい声が掛けられ。
キュウと答えて鳴きながら傍によると、ぽふ、と、しなやかな掌がクズノハの頭に乗せられる。


「この花ね。咲かないの」
「キュ?(え?)」

ゆっくりと撫でる主の手の動きに、うっとりとしながらも。
今までで、一番哀しそうな響きの声を、聞いて、子狐の心は痛む。

「キュキュ?(咲かない?)」
「私がこの花を忘れてしまったから、咲かないままなの。・・・ずっと」

「キュウ?(どうして?)」
「そういう呪いなの」

キュ・・・ウ(呪・・・い)。
うん。・・・思い出さないほうがいいから、って。・・・ルイが、この花に、呪いを。

そう、呟くシュラの声は、固かった。





◇◆◇





ごめんね
(ごめんな)


忘れてしまって、ごめんね
(忘れてしまって、ごめんな)


私が、弱いから
(俺が、弱いから)


「お前を 忘れてしまって、ごめんね」
(お前を 忘れてしまって、ごめんな)




そう 謝る シュラ様は 本当に 悲しげで。
ああ、ぼくの 力で この花を 咲かせることが できたなら、と。


「一度で いいから、咲くところ 見たいのに」

そう 嘆きつづける シュラ様の 望みを かなえてさしあげたい、と。
ぼくは そのとき、心の底から そう 思いました。





◇◆◇





哀しい少女の声に重なって、寂しげな少年の声が聞こえた気がして。

あ・・・れ?男性体に、戻られるのだろうか、と思いながらも、
なぜか、花ではなく、“自分”に謝られているような錯覚を起こして、子狐の心は惑乱する。


「え?クズノハ、何を・・・」

惑った子狐は、心の(おり)を誤魔化したくて、シュラの指がつかむ花へと顔を向け。
驚いたような主の声を聞き流し、そのまま、つんつんと、花の蕾を、鼻先で何度もつつく。


「あ・・・! 花、が」

恋人の拙い愛撫に仕方なくその身を開く乙女の如く、その青い花は、ポンと音を立てて開き。
やっと顕現した青い花を見て、シュラは呆然と、思い出したその花の名を呼ぶ。

我知らず、”言霊の力”を籠めてしまった、その魔の音で。



――― と。

最強の悪魔の魔声に、やっと真名を喚ばれた花は、皆、喜び勇んで、その支配に下った。





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蒼穹=青空 (”穹”は弧を描くカタチを示す語。”ドーム”に近いニュアンスか)