――― シュラ!
・・・シュラ!どこに、居るのですか?
「ここだよ、ライドウ」
頭上から、突然の愛しい声が、響き。
え、と見上げた、梢から、ふわりと何かが、地へ落ちる。
「・・・木に登っていたのですか?」
そろそろ、夕餉時なのに、どこを探しても居ないと、思ったら。
無表情な声に、焦りも苦悩も安堵も、愛しさも押し込めて、愚かな人は悪魔に微笑み。
「いい眺めだからさ。高いところから見たくて。・・・この楠、木登りにいい形だったし」
あ、でも。もしかして、驚かせちゃった?ごめんごめん!
人の痛みに気付かぬ振りで、優しい悪魔は申し訳なさげに、頭を掻いた。
あの日も、こんな。
こんな、穏やかな、日、だった。
談笑しながら、歩いていた悪魔の足が止まる。見上げるのは美しい葉を茂らせる一本の。
「どうか、しましたか?」
「・・・これ、ソメイヨシノだよね。桜の」
「ええ、そう、みたいですね。標識がそのように」
そういえば、春には見事な花を咲かせていたか、とライドウは記憶の色を手繰り寄せる。
その色をより鮮やかにさせるのは、続けられる悪魔の言霊。
「ええっと。“ねがはくは 花のもとにて” ・・・だったっけ?」
「西行、ですか。ええ。・・・“そのきさらぎの 望月のころ”、ですね」
“春死なむ”、の、忌み語をさりげなく避ける少年達は、言外に互いの悲しい思いやりを知る。
「あの“花”ってさ、桜、だけど、ソメイヨシノじゃないんだって」
「そう、なのですか?・・・では、どんな」
園芸好きだったという、彼の大叔父の影響か、他の誰かの優しい思い出か、あるいは。
いずれにせよ、植物に造詣が深い彼の言葉は、とても興味深いことを知るライドウは続きを促す。
「自生の山桜、らしいよ。だって、ソメイヨシノは江戸時代に東京の駒込で作られたって」
「なるほど、それなら平安から鎌倉を生きた西行が、見るわけもありませんね」
そう、聞いて。ふむ。ソメイヨシノは、帝都出身だったのか、と、思って梢を見上げると。
知らなかったのですか、我等が守護者よと、今は眠る桜花精が苦笑したようにライドウは思う。
いつも。・・・いつも、そうやって、知ってか知らずか。貴方は。
いつも、僕の、この地への愛着を、深めさせて。
「ライドウは、ソメイヨシノ、好き?」
「そう、ですね。品種で考えたことは無いですが、桜は嫌いでは、ないです」
貴方は?と、短く問われた言葉に返るのは、意外な。
「俺は、ソメイヨシノは、ちょっとだけ、苦手だった」
「苦手?」
嫌い、ではなく、苦手?
怪訝そうな響きに、シュラは困ったように苦笑して、桜の幹にその手を触れさせる。
「こいつ、クローンだから」
「くろおん?」
聞きなれぬ言葉に、ライドウが首を傾げると、シュラはクローンの説明は難しいなと笑う。
「 “ソメイヨシノ”は接木や挿木で増やされた樹しか存在しない。栄養繁殖っていったかな」
「・・・つまり、複製」
日本中、何百何千何万の全てのソレが、たった一本の創めの樹のクローン。
ぞくり、と理由の分からない怖気がライドウの背筋を走る。なるほど、苦手、か。よく分かる。
「うん。・・・そっか、複製って、言葉があったな。さすが、ライドウ」
だから同じ条件下の、同じ地域では一斉に咲くんだ。皆、同じ個体だから、と、彼は続ける。
「俺達の時代、だと、ネットってので他人と情報を共有させて、繋がることができてさ」
中二病っぽい発想だけど、ソメイヨシノがネットワーク持ってたら、怖いなとか思ったことある。
「怖い?」
「だって、全部の樹が同じ情報を、感情を共有したらって、思ったらさ。ちょっと不気味で」
・・・ああ、今は、そんなふうには、思わないんだけど。
(だって、俺や、仲魔達、だって。・・・言ってみれば)
「シュラ?」
不自然に止まる会話に。投げられる名に返るのは不自然な、文脈。
「でも、残念だ」
「?」
「見たかったな」
「何、を?」
「満開の桜の下に佇む、お前」
きっと、息が止まるぐらい、綺麗だ。
・・・残念だと、見たかったと、その過去形の語尾も。
息が止まるほど、哀しいほどに美しいのは、貴方のほうが、と。
その無情な言の葉の、何もかにもを、覆してしまいたいと、願いつつ。
それでも。・・・避けられぬ未来を見据えながらも、見ない振りで。哀しく微笑む二人の、願いは。
――― きっと、同じだった。
ああ。
願わくば、お前の元で。貴方の傍で。
永遠に、眠って、しまいたい。
◇◆◇
穏やかな春の宵。
天空高くに望の月。
地上低くに満開の、桜花。
黙して歩く、月のように美しい後継の肩に、夢のようにふわりと落つる桜の花弁。
眼福よ、と心中で思う黒猫は、クルルと、小さくのどを鳴らす。
『今年は早いな、もう、散り時か』
「・・・」
その猫の声に。
つ、と足を止め、月下にけぶる桜の枝を、ライドウは見る。
時の移り変わりを人に惜しませる潔さが、美しくも愛しいその花は、誰かを思い起こさせる。
(そういや。秒速5センチメートル、なんだって)
(?・・・。何が、ですか?)
耳によみがえるのは追憶。おもかげの花の、声。
『どうした、ライドウ。急に、立ち止まって』
「・・・秒速5cm、なのだそうだ」
『?・・・何が、だ?』
花弁のように零れ落ちた、後継の美しい声を拾った猫は、
桜の散る、速度、なのだと、その解を、聞いて、髭を揺らす。
――― 不思議な言葉だ。
風情があるのやら、無いのやら。
数字と単位で構成される、ただの情報が、
かの花の落つるそれ、と聞いただけで、鮮やかにその容を変える。
色を持ち、風を呼び、時を止め。
その情景さえも。
一体誰からそんな言葉を、と。
問おうとして、黒猫はその愚行を止める。
ライドウがこのように柔らかく心を揺らす存在は、もう、一つしか居ない。
もう居ないのに、居る。居るのに、もう居ない、その鮮やかな。
地獄の底へ、潔く、散っていった、手の届かぬ、花。
ふいに、一片の花弁がふわりと、風の無いままに、落つる。
(・・・あ)
花が願ったその先は、黒を纏った学生の、美しき、白い掌。
『・・・行くぞ、ライドウ』
「・・・ああ」
引き込まれるように、掌の中の花弁を見ていたライドウを、ゴウトが呼ぶと。
何かを振り切るように、彼は言葉を返す。
と、そこへ、吹きこむ一陣の。
ああ
やはり
握り締めれば、傷めてしまうのではと。そう、思って、掌の上に大切に乗せていた、それは。
――― 黒い風にさらわれて。
・・・そして。
六花のごとく舞い散る花吹雪の中、ただ立ちすくみ。
過ちのように繰り返す喪失に叫ぶ心臓を抱える少年が。失われた花弁の往き方に、見るのは。
――― ただ、深い闇ばかり。