「ヒトツ条件がある」
「条件、…どんな」
「俺と触れ合っている間」
一 言 も 、 し ゃ べ る な
「また、禊か」
どこか呆れたような、諦めたような声でニャアと鳴く目付を僕は、黙ったまま見下ろす。
なぜ分かるのかと、少し首を傾ける。と、
ピチャリと頬で髪が濡れた音を落としたので、納得する。
先ほどの。身を清めた回復の泉の、水滴が、まだ残っていたか。拭い去ったと思っていたのに。
「最後の、煌天か」
「…おそらくは」
当然のことを当然のように言われて、けれど胸はズクリと音を立てる。
そう、最後だ。これで最後だ。最後だから。…だから。
「おい。管まで、置いていくのか」
白いホルスターを上下とも外し、武器と共に床に置く僕を、猫は尖った声で咎める。
「封魔の鈴は鳴らしてある」
「だが、この階層ではお前より」
高位の悪魔も中には、と、言いかけて、何かを思い出したかのようにゴウトは黙り込む。
そうだ。もう、彼は僕よりも強い。
彼よりもレベルの高い悪魔は、もうこの塔に存在しない。
僕が今から向かう場所に居る彼よりも、強く美しい悪魔は。
少しの沈黙の後、コツリと歩き出した僕の背に、捨て台詞のように
さながら供物のようだなと、その毛と同じように黒い揶揄を投げるから。
「どちらが、どちらの」と、返してやると。
――― 僕達の間に落ちたのは沈黙だけだった。
「Der Vollmond」
「デア、フォルモーント?ドイツ語ですね」
「うん。満月って意味だよ。ライドウ」
「デアが付くということは、月は男性名詞?」
「Ja. 日本と同じ」
「同じ?」
「だって、太陽が die Sonne。女性名詞」
「ディー ゾンネ?」
ほら、アマテラスとツクヨミ。女の太陽、男の月、と貴方が笑うから、
ああ、と合点がいったと僕が頷いたのは、あれはまだ共に行動を始めたばかりの頃。
「そういや、あいつはどっちなんだろうな。男か、女か。いや、どちらでも無いか」
金の混じる銀の瞳でカグツチを見上げて、そう呟いて。
「悪魔は月齢に惑わされますが、ここでは」
「うん。あいつに惑わされる。…カグツチに」
煌天のときはさすがに、ちょっとキツいな、と。珍しく、苛立たしげに彼は舌打ちをした。
そのとき思わずと見惚れたのは、彼の、諦念に濡れた銀の月。怒りに染まった金の月。
けれど、やがて彼が道を選び、美しい双月が赤く染まったそのときから、彼は、狂い始めた。
カツリ、カツリと硬い靴音が周囲の壁に床に反響して、不気味に響く。
僕を怖れて、彼を畏れて、一体の悪魔も居ない空間から、僕はカグツチを見上げる。
眩しく、禍々しく輝く光源を。
そう。あのときも僕はこうやって、彼を探しに行った。
あれはカグツチ塔で初めての煌天。行き止まりの扉の奥。
独りにしてくれと苦しげに言い残して、姿を消した彼を探して。
たどりついたそこに居たのは、既に普段の彼ではなかった。
そして彼が狂気の内にあると、煌天の間の記憶は残らないと、そう気づいて、僕は。
触れてはいけない供物に、手を伸ばしたのだ。愚かにも。
「また、来たんだ?」
彼が閉じこもった空間に入った瞬間に聞こえた魔の声に、ゾクリと震えた己を気づかれぬよう、
僕は黙したまま彼を見る。紅く染まる紋様を輝かせ、双眸に紅い月を昇らせた美しい魔物を。
くすくす。
「そんなに、見ないで」
誘っているようにしか思えないよ。ライドウ。誰に教えてもらったのそんな手管。
ねえ、ホントきれいだ。お前の瞳。月よりも、カグツチより、俺を乱す黒い月。
黒い月に映る、紅い月。それを映す瞳を見返して僕は思う。
誘っているのは、貴方の方だ。
貴方こそ、誰に教えてもらったのだ。
誰に、誰に、誰に。
その物慣れぬ風情で。その朗らかな笑顔で。その優しげな魔の声で。
僕を、遥かに凌駕するほどの。崇拝者すべてを跪かせるような手練手管を。
ああ、残った矜持を掻き集めなければ。
そうでなければ、今すぐに跪き、身も心も魂も貴方に捧げると誓ってしまいたいほどに。
――― 貴方は。美しくて。
やがて、黙ったままの僕に呆れたように彼は、言葉を投げる。
「ああでも、バカだね。ライドウ、あんなに」
来るな、って言ったのに
それとも何?そんなに、
俺に抱かれたいの? 俺を抱きたいの?
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