月蝕 06









「忘れるかも、しれませんよ」

「いいよ、忘れても」








機嫌よく、悪魔の飲み物の準備をする助手に所長は語りかける。

「なんか、変わったな。ライドウ」
「そう、ですか」
どこがでしょう、と、微笑む助手を見ながら、そういうところがだよ、と鳴海は胸をドキリとさせる。

「どう言えばいいのかな。余裕ができて、自分を大切にするように、なった?」

前はもっと、冷たい刃物みたいな気を纏わせていて。
その美貌もあいまって、触れると切れそうな張り詰めた糸みたいに、どこか近寄りがたくて。
帝都の守護も、ヤタガラスの依頼も、課せられた「義務」の一つとして淡々とこなしているように
見えた。それが自分の身や心を傷つけるような汚い仕事であっても意にも介さず。なのに今は。

「自分を、大切に、ですか。…なるほど」
言葉少なに答えたライドウが浮かべた笑顔が、桜の花のように柔らかく幸せそうに、ほわりとほころぶのを直視して、また鳴海は緊張する。

(そう、こんなところが一番変わったんだ)
毎日がとても幸せそうに見える。自分を大切にすることで他人も大切にできることに気付いて、
自分も周囲も全部を護って真っ直ぐに生きようって、そんなふうに見える。

「あっ、と」
「っ!」
ライドウが渡そうとしたカップを受け取り損ねて、揺れた黒い水面からはねた熱が白い指先にとぶ。

「す、すまん!」
やけどしなかったか!と慌てる鳴海の前で、ライドウは指先を舌で舐める。

「……」
黒い悪魔の飲み物がかかった白い指先を舐める、紅い舌。わずかに開いた赤い口唇。
ゆっくりと丁寧に執拗に思えるほどに、優しく自分の指を愛撫する少年。

念のため、冷やしてきますと、言った助手がパタンと音を立ててドアを閉めるまで。
哀れな探偵所長の硬直は解けなかった。





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