椿姫 03



「き、きみ。そ、そう、そこの、学生服の、きみ」
佐竹と斉藤を追って、悲鳴が聞こえた方向に向かうライドウを誰かが呼び止める。
立ち止まり、声がした方向を伺うと。
物置、だろうか。狭い小部屋の扉が少しだけ開いている。

「す、すまない、けど。だ、出してくれない、かな。出れなくなっちゃって」

・・・囁くように哀願するその声には、聞き覚えが、あった。



「ありがとう。学生くん」
「あなたは、先ほど佐竹さんと」
「あ、ああ。君も、あのときに、居たね。いや、恥ずかしいところを見られちゃったな」

頭を掻いて誤魔化すように笑うその青年は、どこか憎めない風ではある。

「帰らなかった、んですか」
「どうしても、諦められなくてね。せめて名前だけでも聞きたい、と思って」

裏口から入ったら、下働きの子に泥棒と間違えられちゃって。
悲鳴に驚いて、慌てて逃げて、その納戸に隠れようとしたら。

「物がいっぱいすぎて、扉との間に挟まって、動けなく、なったと」
そうなんだー、とまた頭を掻く青年の能天気さかげんは、どこかの誰かを彷彿とさせる。

「なぜ、そんなに、会いたいのですか?名前も素性も知らぬ、相手に」

心底不思議そうな声でライドウから投げられた質問に、放蕩息子はしばし硬直し。
やがて、困ったように笑って、言った。

「ああ、君って。恋、したこと、ないんだね」



◇◆◇




「・・・尻尾が異様に揺れているぞ、ゴウト」
『お前も、もっと怒れ!なにが、“君って。恋、したこと、ないんだね”・・・だ!!』

相手の迷惑も周囲の困惑も顧みず、自分の欲するままに動いてしまうのが、恋、だと。
(確かに、そういう側面が無い、とは言いきれぬが、しかし)
ああまで、鼻高々に自慢げによくも言えたものだ!それも、ウチのライドウに!!失礼な!!

・・・若干、感情の方向性が見失われつつあるようだが、プンプンと怒りながらも今日も黒猫はライドウと共に、芝居小屋へと向かう。

と。どうやら、何か、揉めている最中のようである。

本来の出し物ではない、“見世物”に集まっている野次馬を制していたらしい佐竹が、ライドウを目ざとく見つけて、傍へと呼ぶ。

(すまんが。奥で例のボンボンがやんちゃしててなぁ。わしはこっちで手一杯じゃから、ちぃと相手してもらえるかぁ?)

こくり、と肯いたライドウが、頼む、と信頼の笑顔を投げた佐竹の横を通り、奥へと入ると。
聞こえるのは、男が言い争う声と、娘のすすり泣く、声。

「丈太郎!いつまで、こんなくだらんことをしておるのだ!」
「父上には関係ないことです!!」
「いいから。早く家に戻れ。それ以上、周りに迷惑をかけるな!!この馬鹿者が!!」

怒鳴りつける男―― おそらくは放蕩息子の父親だろう―― は恰幅の良い堂々とした紳士だ。

「父上だって、若い頃にはいろいろなさっていたでしょう!」
「・・・何のことを言っておる・・・」

「僕は知ってるんですよ!父上が、見世物小屋の娘と駆け落ちしようとしたって!!」
「誰が、それを」

おしゃべり好きの伯母上ですよ!と。
身内の恥を晒し、見苦しく抵抗を続ける、放蕩息子の右手には包丁。
その、左腕に抱え込んでいるのは、見世物小屋の下働きの娘。

「い、いいから、あの人を呼んで来い!」
切れたように叫ぶ声に、見世物小屋の者達が慌てて奥へと走っていく。

恐らくは親に詰め寄られて、家に連れ戻されそうになったのを抵抗して、この愚かな現状か、と。
頭を抱えたくなるゴウトの横で、ライドウは放蕩息子の隙をうかがい、下働きの娘を助けるタイミングを計る。

やがて。パタパタと奥より、数名がこの場へとやってくる。

その内の一人を見るなり。

『・・・なるほど。“椿”か』
「ゴウト?」
微かな溜息と共に、心底納得したように呟く黒猫をライドウが見やったとき。

「・・・椿!」

その場に居る内で、一番意外な人物が。その美しい少女の、通り名を、思わずと叫んだ。


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