軽い頭痛の名残しか残さない仮眠から目覚め、甘い吐息に囚われたままの身体をゆっくりと、
ライドウは、起こす。
「お、ライドウ、起きたんだ」
少し酔っ払い度数がマシな声で、鳴海が声をかける。
「もう起きて平気か?夕食を食べてすぐ、疲れたとかって、すぐに仮眠しちゃったけど」
こくり、と肯く助手を、心配そうに見やって。おや?と鳴海は手を伸ばす。
「あ、れ?お前、服に何か、ついて・・・へえ。菩提樹の葉っぱか」
そういや、泉で泳いだって、言ってたよな。
ふぅん。♪Am
Brunnnen vor
dem
Tore
, da steht
ein Lindenbaum
、ってとこだねぇ。
・・・それは?と。
鳴海が口ずさんだ何かを問うてみる。
ああ、昔、習った歌だよ。日本語だと、『泉に添いて、茂る菩提樹』、って訳だったかな〜。
どんな内容の?と。詳細を問うと、困ったように探偵所長は、笑う。
よく、覚えてないよ。俺、不真面目だったから、さ。・・・ただ、悲しい、歌※だったと、思う。
だから、俺も覚えてるんだよ、出だしだけ、だけどさ。
と。
それだけ言って、彼には珍しく黙り込む。
だから、ライドウも聞かなかったし、鳴海も言わなかった。
それが、あの悲しい悪魔が愛した言葉の、歌で、あること、など。
――― 少し、散歩に出ます、と。
未だに、仮眠から覚めぬ黒猫を気遣い、起こさぬように、身支度を整えるライドウに。
おう。気をつけてな、と、鳴海は背中越しに声を掛けた。
◇◆◇
夜のひんやりとした空気は熱を持つ心と身体に、心地良い。
宿の裏手にある遊歩道を歩くライドウの耳に、気の早い秋の虫が次の季節を冷酷に告げる。
・・・もう、夏も終わりだな。
何の気も無しに浮かんだ言葉は、そのままギリギリと心を締め上げる。
――― そう、もう、"終わり"、なのだ。
ああ、惰弱に、過ぎる。と。
自らを責めるその故は、す、と、己の瞳から落ちる雫。
・・・僕はこうやって、痛みを誤魔化そうとする。
あの、悲しい悪魔は、泣くことも、できなかった、のに。
自戒して、ふと、違和感にライドウは気付く。それは、昨日までは持たなかった、違和感。
・・・いや、ちが、う。
一度だけ、彼の涙を、見た、気が、する。
ずっと、忘れていた、けれど、今、思い出し、た。
キレイな、哀しい、赤い瞳から零れ落ちた紅玉の欠片のような、雫。
泣かないで、と。その涙を止めなければ、と。気が違うほどに、願った。
――― いつ?
自問して、凄まじい拒否反応を得て、気付いてはいけなかった事実にライドウは気付く。
泣かせたのは、僕、だ。
泣かせて、そして、捨てさせた。
――― 何を?
やめろ、思い出すな、と。制止する声を振り切って走りだす思考を止めたのは。
「ライドウ」
・・・やはり、彼の声だった。
幻聴か、と自嘲する暇もなく、振り返った先に愛しい悪魔を見る。
白樺の幹の狭間に同化するように、佇む彼は、月の光のせいか、どこか顔色が青い。
なぜここに? また体調が?
どちらから問おうかと逡巡する間に先手を打たれる。
「・・・泣いてたの?」
すう、と暗闇を蛍のように線を引いた緑の光が、辿りついた白磁の頬を撫でる。
答えずに俯いたライドウに、それ以上は追い討ちをかけず。
違う形で悪魔は彼を苦しみへと突き落とす。
「・・・予定が、変わってさ、もう、行かないといけないんだ」
だから。
「お礼、しに来たんだ」
"あれ"じゃ、お礼になんか、ならないだろ、だから。
――― 透き通るような彼の笑顔を見ながら、ヒトは。気付く。
気付いて、自分の、醜さに、吐き気が、する。
僕は、知って、いた。
貴方が、"あれ"を、礼、であるなどと、けして認識しないと。
もう一度、願いを、叶えてやると、言い出すに、違いないと。
知っていた、のに。それでも。
欲しかった、のだ。触れる、理由が。
・・・触れたかった、のだ。この、唇、に。
再び俯いたまま、答えないライドウを気付かうように、悪魔が一息、つく。
「あと。最後に俺からもお願いが、あってさ」
顔を上げ、何を、と問う瞳に、どこか寂しそうに彼は笑う。
「俺の髪、切ってくれない、かな」
その、刀で。
・・・ダメ、かな。
◇◆◇
くる、と後ろを向いた彼が、髪をまとめ、左手でその束を持ち上げて、右手で。
残る、後れ毛をかきあげる、仕草に。
コクと鳴る人の喉の正面には、片手で縊ってしまえそうなほどにすんなりと、した。
美しい紋様の光る、悪魔の頸。
「なるべく、短く」
ライドウが左手で髪の束を掴むと、彼の左手が引き下がる。
右手の刀の根元近くを当てる。刃に反射する緑の光は、何かを誘うかのようだ。
――― お前なら、この首を掻き切っても、構わないよ。と?
一瞬、目の前に飛び散った美しい血の飛沫の幻影を振り払って。
ライドウは刀を引く。
プツリ、パサリ、と切られて、男の手の中で刈られた草のように萎れたその髪は。
――― あ、
切った端からライドウの手をすりぬけて。
吸い込まれるように、翼へと同化していく。
月が雲に隠れるように、ゆっくりと染められていく、白い翼。
切り終わり、彼が髪を整えるように掌を頭に当てて、何度か撫で付けると。
見慣れた短い、彼の髪型になり。
光と闇を溶け込ませた、混沌の翼を持つ悪魔は、振り返り、影に溶け込むように、笑う。
「ありがとう。助かった」
自分では切りにくくて。ケルにも頼んでみたけど、ものすごい勢いで拒否されたし。
しまったな。アイツ、俺の血を見て、トラウマっちゃったかな〜。
そう言って、しばらく、沈黙してから。
その懐かしい姿と、あまりにも似合いすぎる混沌の翼を見て、言葉も無い悪魔召喚師に。
「・・・そろそろ時間だ。願いを、言ってくれ、ライドウ」
と。
彼は微笑んで、その心を、引き裂いた。